中世ローマ帝国

コンスタンティノープル千年」と同じ著者の本です。こちらの本は1980年初版です。私は「コンスタンティノープル千年」を読んだあとに購入しました。こちらは「コンスタンティノープル千年」とは違って読むのに骨が折れます。専門書といった感じです。この本の眼目は副題にあるように中世ローマ帝国を中心に「世界史を見直す」ということです。

対象としてとりあげられているのは、地中海周辺全域にわたる中世初期である。歴史学の専門分野でいえば、それを研究対象とするのは、たとえば、西洋古代・中世学であり、ビザンツ学であり、イスラム学であるが、それぞれの研究領域が自分にひいた境界の線引きをとっぱらったとき、そこに全体としてうかびあがるのは、一方で、古代のローマ世界帝国の途切れなき連続体であり、四世紀にはキリスト教化されたところの、中世ローマ帝国、人よんで東ローマ・ビザンツ帝国とする一国家と、他方で、その周辺部に、民族移動の結果として登場してくるさまざまな民族という、二つの基軸から成る、中世初期の地中海世界の構造である。


「まえがき」より

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/dd/Obelisk_of_Theodosius_-_East_face.JPG
この本には「いわゆるローマ帝国没落の神話とうらはらに、民族移動の巨浪が荒れ狂う大海のさなかにあって、ひとり巌の上に屹立しながら、古代から中世にかけてひきつづき存続していくローマ帝国という表現が登場します。このフレーズは、それまでの自分の世界史の認識と異なっていたので心に残っています。そして、この民族移動というのはゲルマン民族の移動だけにとどまりません。この本では以下の民族を挙げています。ゲルマン民族フン族、スラヴ民族、アヴァール族ブルガリア族、アラブ民族、ノルマン・ルス族(ウクライナ人、ロシア人)、マジャール族(ハンガリー人)、ペチェネグ族、クマン族、セルデュック・トルコ族。これらの民族がローマ帝国に戦いを挑み、ローマ帝国はある時はそれに打ち勝ち、ある時はなんとかなだめすかして、自己の保全を図ってきたのでした。著者の言う「ひとり巌の上に屹立しながら」という比喩になるほどと思いました。

私はこの本をよく理解したとは言えないのですが、2つの点でこの本に感謝しています。
1つは西ローマ帝国滅亡の様子を記述してくれたことで、もう1つは「第四章 オリーブ・プランテーションの記述で異世界にタイムスリップ出来たことです。西ローマ帝国の滅亡については「ローマは1日にして滅びず(3)」でこの本からの引用を示しました。ここではオリーブ・プランテーションの話をご紹介します。著者が「時代が紀元六世紀であることは意識的に伏せてきた」というように、いつのこととは分からずにその時代にいきなり飛び込む叙述に、私は取り込まれてしまいました。

 オリーヴ林は地中海地域に独特の景観である。それは、日本の植生のなかに見出すことが、まず困難な色調だ。あえていってみれば、くすんだ銀の地に、淡い緑を重ねあわせたもの、とでもいうことになろうか。
 かつて、このオリーブ・プランテーションによって随所におおわれていたのが、シリアの地中海沿岸を東方はほぼ五十キロメートルほど内陸に入ったところからはじまる、南北約百四十キロメートル、東西二十――四十キロメートルの石灰岩地質の山地のその傾斜面であった。この、オリーヴにいろどられた傾斜面をのぼりつめたところ、平均標高海抜四―五百メートル、頂上が六百メートル、時に八百メートルを越える峰の上には、いくつもの村落が点々とのぞまれた。これらの村落は、古い建物の金色、黄土色から、ごく最近建てられたばかりの建物の象牙色――時には白色まで――にいたる、材料としての石灰岩がつくり出す暖色系統の色階を、この地方特有のあのまぶしいばかりの紺碧の空のもとにくりひろげ、また、屋根瓦の赤色と、すべての建物に設けられた、日よけ、雨よけの柱廊の、ふかぶかとした黒い陰とが、集落全体にわたって、モザイクのようにちりばめられていた。


「第四章 ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃――地中海的生産様式の一類型――」より

この叙述は私にはまるで小説家の叙述のように思えます。

 季節は十月。この地方に四月から続いている長い乾季が明けて最初の降雨をみるまでには、まだ一ヵ月あるが、オリーヴの実はすでに熟しはじめている。峰上の村々は、一年のうちでもっとも忙しい数週間をむかえようとしている。すでに穀物の刈り入れと脱穀をおえた近くの盆地や、さらに遠くの周辺部の平野から、村によっては、人口の数倍にものぼろうという季節労働者が到来するからだ。いうまでもなくそれは、村人だけでは到底処理しきれないほど大量のオリーヴの実をひろい集め、オリーヴ油をしぼり、はこび出すためである。その作業が、数週間という限られた短い期間にてきぱきと済ませなければならないものであってみれば、その手順について、村人同士の間で合意と了解が必要になってくるのはいうまでもない。村の集会場では寄り合いがはじまる。
 季節労働者の宿舎となるのは、たとえば、小さな村には不釣合いに宏壮な教会だ。かれらのための食料の準備も欠かすことのできない配慮である。何しろ、傾斜地が大部分という地理的条件から生れた、オリーヴ単作の峯上の村落には、もともと穀物栽培のための平坦な土地も充分になく、また、降雨量が僅かで牧畜経営にまわすだけの水の余裕もなく、したがって、平常でさえ穀物と食肉は、石灰岩山地の東に展開するさらに内陸のシリアの平野ないしステップから、野菜は同山地の西および北の灌漑河谷から、それぞれ供給を仰がなければならない状態なのである。・・・・


「第四章 ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃――地中海的生産様式の一類型――」より


イスラム化される前のシリアの情景です。このあとも紹介したいのですが長くなるのでここで止めます。それにしてもこの、それなりに調和のとれたと見える社会が、今、内戦に苦しんでいるのと同じ地方であるのは、考えさせられます。また、私は、すぐれた歴史学者はここまで生活の諸相を甦らせることが出来るか、という点に感動させられました。