答志(とうし)島


実は、10年ぐらい前もこの島に来たことがあって、その時は、ここ和具ではなく、その先の答志というところに上陸したのですが、帰りの船の便を調べたら2時間ぐらい先だったので、時間をつぶすのに苦労したことがありました。そのことが頭をよぎったので、さっそく待合所で帰りの便の時刻を調べたら、40分後に便があることが分かりました。40分というと逆に観光するのには短い時間です。あたりを見回しても、観光客目当てのものは見当たりません。


とにかく歩き出したところ、道しるべがあって、そこに「首塚 610m」とあるのを見つけました。610mならば40分で往復は楽勝ではないか、と思い、その道しるべの方向に向かいました。ここ答志島は、信長や秀吉に水軍を率いて仕えた九鬼嘉隆(くき よしたか)首塚と胴塚があるのです。私はその時は九鬼嘉隆についてはボンヤリした知識しかなかったのですが、話のネタに行ってみることにしました。そして、家に帰ったあとでWikipediaで知識を仕入れました。
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九鬼 嘉隆(くき よしたか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5,000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。

嘉隆は慶長の役には出陣せず、慶長2年(1597年)に家督を子の九鬼守隆に譲って隠居した。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると(九鬼)嘉隆は西軍に与し、(九鬼)守隆(九鬼嘉隆の息子で後継者)は東軍に与した。これはどちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったという。嘉隆は守隆が徳川家康に従って会津征伐に赴いている間に、堀内氏善らと共に守備が手薄になっていた鳥羽城を奪取。伊勢湾の海上封鎖を行い、8月24日の安濃津城の戦いの勝利に貢献するが、9月15日の本戦で西軍が壊滅すると、鳥羽城を放棄して答志島に逃亡した。
守隆は徳川家康と会見して父の助命を嘆願し、守隆の功績の大きさが考慮され了承されたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える前に、九鬼家の行く末を案じた家臣の豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹するよう促し、これを受け入れた嘉隆は10月12日に和具の洞仙庵(どうせんあん)で自害した。享年59。
嘉隆の首級は首実検のために家康のいる伏見城に送られたが、その途中で伊勢明星において守隆の急使により確認される。守隆は激怒して豊田を斬首した。首級は伏見城に運ばれたため、守隆により胴体のみが洞仙庵近くに葬られ、胴塚が建てられた。首級は実検の後に答志島へ戻り、胴体とは別に築上(つかげ)山頂に葬られ、首塚が建てられた。


Wikipediaの「九鬼嘉隆」の項



さて、道しるべの方向に歩いていくと、どんどん道が狭くなり、家と家の間の狭い路地になりました。ひょっとして道を間違えたのではないか、と思った時に次の道しるべが現れました。

そこを少し進むと階段があって

この階段が長い長い・・・。この階段を終えても坂道が続き、そしてまた階段・・・・。時間がないので、急いで上ります。途中、先ほど船が到着した船乗り場の方角が見えました。


首塚は見晴らしのよい山頂にありました。首塚といっても、ちょこんと小さな石が置かれていて、その横に木が植えられているだけです。ちょっと怖かったので首塚の写真は撮っていません。そばにある案内板を読むと、九鬼嘉隆は自害する前に「自分を鳥羽城の見えるところに埋めてくれ」と遺言したそうで、そのためにここに埋められたそうです。鳥羽城は九鬼嘉隆が築いた城でした。


鳥羽城の方向を望む。


ここでゆっくりすることなく、今度は坂道、階段を駆け下りて、出航の10分前に船乗り場にたどり着きました。


鳥羽に向かっている時に、フェリーとすれ違う。