答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(1)

九鬼水軍の歴史を持つ答志島ですが、もっと昔から栄えていたらしく、島内には17基の古墳が発見されているそうです。その中でも代表的なのが岩屋山古墳と蟹穴古墳です(これらの古墳の推定年代をネットで検索したのですが、見つかりませんでした)。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5b/Port_of_Wagu.JPG
このような稲作に適さない島に、これだけの古墳があるというのは、おそらく古代の水軍がここにあり、その統率者が古墳を作らせたのではないか、と想像しました。答志島の山から見ると神島(三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台)がすぐそばに見え、その向こうは渥美半島です。つまり、答志島は伊勢湾と三河湾の入口を封鎖できる位置にあります。つまりここを押さえておけば、伊勢湾と三河湾の外と内の物流を遮断することが可能な、戦略的に重要な位置にあります。



場所は少し異なりますが松阪市の宝塚1号墳で出土した船型埴輪を、私は思い出しました。このような船を多数所有した水軍の主がこのあたりの海域に存在していたのではないでしょうか? そんな想像をしてみるのも楽しいものです。

宝塚1号墳から出土した日本最大の船形埴輪――松阪市の文化情報


西暦692年、持統天皇が伊勢に行幸した際に、柿本人麻呂は大和に留まっていましたが、行幸の人々を思って作った和歌が万葉集巻1に採録されています。

  • 嗚呼見(あみ)の浦に 舟乗りすらむ をとめらが 玉裳(たまも)の裾に 潮満つらむか
  • 釧(くしろ)着(つ)く 答志の崎に 今日もかも 大宮人(おおみやびと)の 玉藻(たまも)刈るらむ
  • 潮騒に 伊良虞(いらご)の島辺 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を

この中の2番目の歌が、答志島を歌ったものとされています。私は、当時天皇が伊勢を訪れる際に、答志島は立ち寄るべき場所と考えられていたのではないか、と想像します。そして、それは単に景色がよい、とかの理由ではなく、もっと政治的な、あるいは宗教的な理由があったのではないか、と想像します。それにしても私にはこの歌の内容に疑問があります。

  • 釧(くしろ)着(つ)く 答志の崎に 今日もかも 大宮人(おおみやびと)の 玉藻(たまも)刈るらむ

最初の「釧(くしろ)」というのは、古代の腕輪のことだそうです。そして「釧(くしろ)着(つ)く」は「腕輪を着ける」という意味で「答志」の枕詞だそうです。なぜこれが「答志」の枕詞かというと、「答志」の昔の読み方は「たふし」でこれは「手節」という言葉と同じ発音で、「手節(たふし)」というのは手首のことだそうです。ですので「釧(くしろ)着(つ)く手節(たふし)」で「腕輪を着ける手首」という意味になるそうです。ここまではそうかと納得するのですが、「答志の崎に今日もかも大宮人(おおみやびと)の玉藻(たまも)刈るらむ」というのはどうも納得がいきません。「答志の岬で今日あたりは、大宮人(=宮中に仕える人々)が玉藻を刈っているだろうか」という意味になりますが、大宮人は庶民よりかなり身分が高いのだと思います。そういう人々がなぜ自ら海草を採らないといけないのでしょうか? 誰か現地人に採らせればよいのではないでしょうか? 大宮人が自ら海草を採りに海に降りなければならないのは、どういうわけなのでしょうか? ネットで検索しても、よく分かりません。