キクラデス諸島の歴史

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

キクラデス諸島の歴史

 キクラデス諸島は、エーゲ海の南部に位置するギリシャの島々である。群島には約2,200の島と岩礁が含まれているが、33の島だけに人が住んでいる。古代人にとってそれらは神聖なデロス島の周りに円(ギリシャ語ではキュクロス)を形成しているので、それが列島の名前となった。最もよく知られた島は、北から南へ、そして東から西へ、アンドロス、ティノス、ミコノス、ナクソス、アモルゴス、シロス、パロス、アンティパロス、イオス、サントリニ、アナフィー、ケア、キトノス、セリフォス、シフノス、フォレガンドロスとシキノス、ミロスとキモロスである。これらにさらに小さな島々を加えることが出来る。すなわち、イラクレア、スコイヌッサ、コウフォニシ、ケロスとドヌッサ、ケアとアッティカの間のマクロニソス、アンドロスの前にあるギアロス、キモロスの東のポリアイゴス、サントリニの前のティラシア。時にはそれらは群島という一般的な名前でも呼ばれた。
 この島々はヨーロッパと小アジアと近東の間に、同様にヨーロッパとアフリカの間の交差点に位置している。古代、航海術としては沿岸航行だけが考えられ、船乗りがけっして陸地の影を見失わないよう努めた頃には、それらは小休止の地として重要な役割を果した。20世紀になってからこの状況は島々の幸運にも(交易は島々の主な活動の1つであった)不運にも(キクラデス諸島の制御はエーゲ海の商業上と戦略上の航路の制御を可能にした)なった。
 数多くの著作家が、それらを唯一の実体とみなしてきたし、あるいは今もみなしている。群島は地形学的観点からは確かに均質であるし、さらに、島々は互いの海岸から見える一方で、それらを囲んでいる大陸からはっきりと離れている[1]。気候と土壌の乾燥も、統一性を示唆している[2]。これらの物理的な事実は否定できないが、この統一の他の要素はより主観的である。したがって、島の住民は、ギリシアのすべての地域のなかで独特のものであり、外部からの混血を受けていない、と言っているある種の著作をあなたは読むかもしれない[3] [4]。 しかしながら、キクラデス諸島は、非常にしばしば様々な運命を経てきた。


 島々の天然資源と、貿易ルートの中継点としての彼らの潜在的な役割は、新石器時代以来、彼らが繁栄することを可能にした。 これらの利点のおかげで、彼らはBC3000年期に華麗な文化の開花を経験した。それがキクラデス文明である。先史時代の権力やミノア人そしてミケーネ人は、そこに影響を与えたことが知られている。キクラデス諸島は古典時代(BC8世紀〜6世紀)に新しい頂点を得た。 ペルシア人ギリシアを征服しようとしている間、それらを奪おうとした。その後、島々はデロス同盟によってアテネの勢力圏に入った。デロスが大きな商業権力となった時、ヘレニズム諸王国はその地位に異議を唱えた。
 ローマ帝国ビザンチン帝国時代に商業活動は行われたが、海賊の注意を引くのに十分なほど繁栄していた。第4回十字軍の参加者はビザンチン帝国を自分たちの間で分け、キクラデス諸島はヴェネツィアの領域に入った。西洋の封建領主は一定数の封土を作り、そのなかではナクソス公国が最も重要であった。公国は、オスマン帝国によって征服され、それは島々の行政と財政の一定の自治を可能にした。海賊にもかかわらず経済の繁栄は続いた。群島は独立戦争に対してあいまいな態度をとった。1830年代にギリシア領になったキクラデス諸島は、その時からギリシアの歴史を共有してきた。最初のうち、貿易ルートと輸送手段が変わる前は、地理的位置のために商業繁栄の期間を経てきた。農民離村に苦しんだ後、観光客の流入によって再生が始まった。しかし今日、観光はキクラデス諸島の唯一の資源ではない。


アンティパロス島




「小アナカルシスの旅」のためのキクラデス諸島の歴史的な地図

1 先史時代
1.1 新石器時代
1.2 キクラデス文明
1.3 ミノア人とミュケーナイ人

  • 1.3.1 文献資料
  • 1.3.2 クレタの影響
  • 1.3.3 後期キクラディック:ミュケーナイ人の支配

2 幾何学文様時代、アルカイック時代、古典時代
2.1 イオニア人の到来
2.2 新しい最盛期
2.3 古典時代

2.4 ヘレニズム時代

  • 2.4.1 ヘレニズム王国間で係争中の群島
  • 2.4.2 ヘレニズム社会
  • 2.4.3 デロス島の商業上の力

3 ローマ帝国ビザンティン帝国
3.1 ローマ支配下のキクラデス諸島
3.2 ビザンティン時代

  • 3.2.1 行政組織
  • 3.2.2 島々の間での紛争と移住