キクラデス諸島の歴史:1 先史時代。1.2 キクラデス文明

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

1.2 キクラデス文明



女性の頭部の像、ケロス・シロス文化、初期キクラディックII(2700–2300 BC)、ルーブル

 19世紀の終わりにギリシア人考古学者クリストス・ツンタスは数多くの島々から様々な発見を集め、紀元前3000年代にキクラデス諸島が文化統一体の一部であることを示唆した。これがキクラデス文明であり[7]、青銅器時代にまで遡る。それは大理石の偶像で有名であり、ポルトガルとドナウ河口まで発見されており、それはこの文明の力強さを証明している。
 それはクレタ島のミノア文明より少し古い。ミノア文明の初期は、キクラデス文明の影響を受けている。キクラデスの小型の像がクレタ島に輸入され、地元の職人がキクラデスの技術を模倣した。この考えを支持する考古学的証拠は、アギア・フォティア、クノッソスおよびアルカネスで発見されている[10]。同時に、アッティカのアギオス・コスマスの墓地での発掘調査では、キクラデスの強い影響を証明する物体が発見されており、住民の中で高い割合がキクラデス人であったか、あるいは島々を起源とする実際の植民地であったためと考えられる[11]。
 伝統的に3つの時代区分が設定されている(大陸におけるヘラディックやクレタ島におけるミノアを分割する区分と等価である)[12]

  • 初期キクラディックI(EC I:3200〜2800 BC)。グロッタ・ペロス文化とも呼ばれる。
  • 初期キクラディックII(EC II:2800から2300 BC)。ケロス・シロス文化とも呼ばれ、しばしばキクラデス文明の盛期とみなされている。
  • 初期キクラディックIII(EC III:2300〜2000 BC)。フィラコピ文化とも呼ばれる。

 常に墓域の中にあるのであるが、その中の墓で発見された骨格の研究は、新石器時代からの進化を示している。関節炎疾患が存在し続けていたが、骨粗しょう症はあまり一般的ではなかった。したがって、食事は改善されていた。平均寿命も伸びた。男性は40〜45歳まで生きたが、女性は30歳までだった[13]。性別による分業は初期新石器時代と同じままであった。女性は小さな家事や農事に忙しかったが、男性はより大きな務めと工芸品を担当した[13]。農業は、地中海沿岸の他の場所と同様に、穀物や(主に大麦で、それは小麦よりも水を必要としない)、ブドウ、オリーブの木に基づいていた。畜産はすでに主にヤギやヒツジ、さらにはいくつかの豚が関係していたが、牛の数はごくわずかで、島ではやはりその増加は微々たるものだった。釣りは、例えばマグロの定期的な移動のために、食糧基地を完成させた[14]。当時、木材は今日よりも豊富で、家の骨組みや舟の建設を可能にした[14]。
 これらの島の住民は主として沿岸近くに住んでいたが、島の地理的位置のおかげで優れた船乗りであり商人であった。当時、キクラデス諸島は輸入品よりも多くの商品を輸出していたようであり[15]、これはキクラデスの歴史のなかではまれな状況であった。キクラデス諸島のさまざまな遺跡で(ミロス島のフィラコピやケア島のアギア・イリニ、サントリニ島のアクロティリ)見つかった陶磁器は、大陸ギリシアからクレタ島へ進む商業ルートの存在を証明しており、それは主にキクラデス諸島の西側を通り、後期キクラディックまで続いた。これらの3つの場所での発掘は、大陸やクレタ島で生産され、島に輸入された花瓶を発見した[16]。
 鋳物職人や、鍛冶屋、陶工、彫刻家のような専門職人がいたことが知られているが、彼らがその仕事で生計を立てていたかどうかを言うことは出来ない。ミロス島出土の黒曜石は、冶金の発達後であってさえ、それが安価だったので、道具の生産のための主要物質であり続けた。銅とヒ素の合金である青銅で作られた原始的な道具が発見されている。銅はキトノスに由来し、既に大量のヒ素を含んでいた。錫は、その出所が決定されていないが、のちになってキクラデス文明の終焉後に、島々に導入されただけであった。錫を含む最古の青銅は、ティノス島のカストリでに発見され(フィラコピ文化時代に遡る)、それらの組成は、それらがトロアス地方から原材料として、あるいは完成品として来たことを証明している[17]。したがって、トロアス地方とキクラデスの商業的な交流が存在した。
 これらの道具は大理石の作業に使用され、特にナクソスやパロスから来て、著明なキクラデスの偶像や大理石の花瓶のために使用された。大理石は今日のように鉱山から採掘されたものではなく、大量に採石されていたらしい[17]。ナクソス島の金剛砂も、研磨のための材料を提供した。最後に、サントリーニ島軽石は完璧な仕上げを可能にした[17]。
 小像や墓の中に見いだされる着色剤も、島々から生まれた。青色のための藍銅鉱と赤色のための鉄鉱石も同様であった[17]。
 最終的に住民は海岸を離れ、角を丸い塔で丸くした要塞で囲んだ島の頂上へ移動した。海賊行為が最初に群島に出現した可能性があるのはこの時点である[12]。