エーゲ海のある都市の物語:テラ(8):アクロティリ


このテラに関する物語の最初で昔テラが大きな島であって、それが火山の大爆発によって今の形になったという話を紹介しました。この大爆発の時にまだテラにはギリシア人は来ていませんでした。その爆発は最近の説ではBC 1628年に起こったと推定されています。こんなに正確な年代が推定出来るのは当時の樹木の年輪を調査した結果です。
この大噴火で埋もれた都市があることが1967年からの発掘で分かりました。それがアクロティリ遺跡です。この遺跡は、いわば先史時代のポンペイとでも言うべきもので、ポンペイと同じように火山の噴火によって埋まってしまった都市の遺跡です。ただし、その年代はポンペイより1600年以上前です。



大きな町のうちの南の端が発掘されただけなのですが、そこには3600年前のものとは思えないような、2階建て3階建ての建物や、8mぐらいの高さの壁に囲まれた四角い広場が現れました。



多くの家では石の階段は無傷のままで、それらの家では巨大な陶器製の貯蔵用がめやひき臼や陶器類がありました。また、町には非常に発達した給水と排水のシステムがありました。給水システムは2系統になっており、おそらく温水と冷水に分かれていたと推定されています。温水のほうは火山による温泉が近くにあってそこから引かれたのでしょう。



発掘された中で注目すべきは、美しい壁画の数々です。それらはここの住民の美的センスが高いものであったことを示しています。



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ギリシア人より前に住んでいた彼らがどんな人たちだったのか、非常に興味があります。遺跡からは線文字Aと今日呼ばれている文字を書いた粘土板も発見されたのですが、残念ながら線文字Aは今も未解読のままです。線文字Aは主にクレタ島のミノア文明で使用されていた文字なので、この頃のテラがミノア文明の影響下にあったことは確かです。しかし、ミノア文明の担い手(今日では便宜上ミノア人と呼んでいますが)がどの系統の民族だったのかまだ定説がありません。さらにテラの住民がミノア人だったのかどうかもはっきりしません。



アクロティリで発見された粘土板に刻まれた線文字A

エーゲ海のある都市の物語:テラ(7):その後のテラ

BC 6世紀、テラはギリシア本土のアテナイコリントスと、エーゲ海東岸のイオニア地方あるいはそれに近いロドス島、とを結ぶ貿易の中継点として栄えました。BC 515年にスパルタの王子ドリエウスがリビアに植民市を拓こうとした時にその水先案内人を務めたのはテラ人でした。それは、テラとキュレネの関係からテラ人がリビアの地理に詳しいと思われたからだと思います。

BC 498年にはイオニアの反乱がエーゲ海東岸で発生しますが、テラはそれに巻き込まれることはありませんでした。BC 490年の第一次ペルシア戦争では、ペルシア海軍はサモス島、イカリア島、ナクソス島、レナイア島(デロス島のすぐ西の島)、エウボイア島、ギリシア本土のマラトン、と島伝いに進んだので、テラにはペルシア海軍はやってくることはなく、戦いにも巻き込まれませんでした。BC 480年の第二次ペルシア戦争では、ペルシア軍はトラキアの方から海岸線に沿ってアテナイに進んだので、この時もテラは無事でした。その後テラはスパルタの植民市であったためか、アテナイを中心とするデロス同盟には参加せず、BC 431年にペロポネソス戦争が始まるとスパルタ側につきました。そのため戦争中、アテナイによる占領を受けました。しかし、BC 405年のアイゴスポタモイの海戦でアテナイ側が敗北すると、テラにおけるアテナイの占領も終わりました。ペロポネソス戦争よりものちの時代に生きた、有名な哲学者アリストテレスはその著作の中で、テラでは最初の植民者たちの子孫が血統に秀でた者たちであるとされ、重い役についている(「政治学」第4巻4章5)、と述べています。アリストテレスの記述からするとテラはBC 4世紀には貴族政を採用していたと思われます。そしてテラスとともに植民した人々の子孫がいまだに権力を握っていたようです。


その後テラはさまざまな国の支配下に入ったのちローマの支配下に入ります。北にあるデロス島がローマの支配下に入って早々放棄されたのとは対照的に、テラはローマが帝政になったあとも繁栄を続けました。そしてAD 8世紀までこの町は存続したのでした。現在は、ここは「古代テラ」と呼ばれる遺跡になっています。



エーゲ海のある都市の物語:テラ(6):キュレネ植民の裏側


さて、キュレネが繁栄したため、この植民の物語はハッピーエンドで終わっているように見えますが、仔細に見ていくとなかなか深刻な状況だったように見えてきます。
たとえば、前回の「テラ(5):バットス 」で、リビアを偵察するためにプラテア島に向かったテラの人々が、クレタの人コロビオスをプラテア島に残して、一旦テラ島に戻った話をご紹介しましたが、実はこのクレタ人コロビオスについて以下の話があります。

 しかしテラ人は約束の期限がきても戻ってこず、コロビオスの生活の資は全く尽きてしまった。やがてコライオスという男が船主であったサモスの船が、エジプトに航行中漂流してこのプラテア島に着いた。サモス人たちはコロビオスから一部始終をきくと、一年分の食糧を残してやった。当のサモス人はこの島を発ち東風に流されながらもエジプトを目指して航行を続けた。(中略)
 コライオスのこの行為が契機となって、キュレネ人およびテラ人とサモス人との堅い友好関係が結ばれることになったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、152 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

「キュレネ人およびテラ人とサモス人との堅い友好関係が結ばれ」たことはめでたいことですが、なぜテラの人々は約束の期限がきても戻ってこなかったのでしょうか? たぶん、植民に出す人々を決めるのに手間取ったからではないでしょうか?

また、このようなことも考えてみました。「テラ(5):バットス 」での物語で最初のグリンノス王のデルポイ参拝の話がなかったとしたらどうでしょうか? つまり、この部分はあとで出来た作り話だったとしたらどうでしょうか? そうすると話は、

 七年の間テラには雨がなく、その間にテラ島の樹木は一本を除いてことごとく枯れてしまった。テラ人が神託に問うと、巫女はリビアに植民すべきことを答えたのである。テラ人にはこの天災に対処するほかの手段もなかったので・・・・


ヘロドトス著「歴史」巻4、151 から

というところから始まることになります。つまり「七年の間テラには雨がなく、その間にテラ島の樹木は一本を除いてことごとく枯れてしまった」という状況が最初にあり、次に「リビアに植民すべき」という話が来ます。そして話は次のように続きます。

 さてテラ人はコロビオスを島に残してテラへ帰ると、自分たちがリビア沿岸の島に植民地を拓いたことを報告した。テラ人は兄弟二人のうち籤に当った方の一人がゆくこととして、七つある地区の全部から移民を送ることに決め、さらにバットスを移民団の指導者ならびに王とすることを決議した。こうしてテラ人は二隻の五十橈船をプラテア島に送ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、153 から

こう考えてみると、飢饉のための口減らしとしてリビアへの植民が計画されたことが想像出来ます。さらに想像をたくましくすれば、テラの政府は植民に人を派遣することをすでに決定しており、デルポイにはどこに植民すればよいかだけを尋ねた可能性もあります。植民先をデルポイに尋ねることは他の伝説でよく見受けられることだからです。

またヘロドトスは、これはキュレネ人の伝えるところで、テラ人の所伝とは異なる、と注釈して以下の伝説を述べています。

 そこでテラ人は二隻の五十橈船とともにバットスを送り出した。この一行はリビアに向ったものの、ほかにどうしてよいか判らぬままに、再びテラへ引き返した。しかし本国のテラ人は上陸しようとする彼らに石を投げつけ、上陸することを許さず、リビアへ引き返せといった。そこで一行も止むなく船を返し、前述のようにプラテアというリビア沿岸の島に植民したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、156 から



どうでしょうか? テラ人が人減らしをしたいという切実な欲求が見てとれるのではないでしょうか? 
しかし、と私はここで思い直します。これだけでテラ人のことを悪く思ってはいけないかもしれないと、です。時代は下るのですが、BC 4世紀のキュレネの法令の中にこのキュレネ植民の当時のテラ政府の決議文が引用されているとのことです。私はこの文章が本当に当時にさかのぼるものであるのか疑問を持っているのですが、さかのぼる可能性もあるので参考までにご紹介します。

もしも定住地を確保できず、テラ人も彼らを救援できぬ場合には、苦境が五年に及んだ段階で、その地を去り、恐れることなくテラなる自己の財産へ復帰し、市民となるべきこと。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」より

歴史の父ヘロドトス

歴史の父ヘロドトス

もしこの文章が本当に当時のものであるならば、テラ人は何が何でも派遣者をテラから追い出すつもりはなく、上記の引用にあったような「石を投げつけ、上陸することを許さず」という行動に出たのは、5年どころか派遣してすぐに戻ってきたことに対して契約違反だと考えて上陸を拒否したのかもしれません。それにしても上記の「石を投げつけ、上陸することを許さず」という伝承がテラ人の方には伝わらず、派遣された側のキュレネ人の方にだけ伝わっているのは、人間世界のありようの一端を示しているようにも思えます。
最後に上記に引用した決議文の別の箇所をご紹介します。当時の植民派遣に対する人々の思いが感じられる文章です。

 故国に残留するものと航行する者とは、以上の条件につき誓約を交わし、これに違反して遵守せざる者に対しては、リビアへ植民する者であれ、故国に残留する者であれ、呪いをかけた。男も女も少年も少女も全員が集合して、蝋人形を造り、呪いの言葉を浴びせて、それらを焼いた。右の誓約を守らず違反した者は、本人も子孫も財産も、これらの人形の如く溶け崩れ、他方、この誓約を守る者は、リビアへ航行する者にせよ、テラに残留する者にせよ、本人にも子孫にも多くの福があるようにと。


藤縄謙三著「歴史の父 ヘロドトス」より


エーゲ海のある都市の物語:テラ(5):バットス

テラではその後、街づくりが順調に進んでいったようです。残念ながらテラスの一行がテラを建設して(BC 9世紀と推定されています)からBC 630年頃までの出来事は今に伝わっていません。そこで話をBC 630年頃まで進めます。この頃、テラではテラスの子孫であるグリンノスが王でした。

ある時この王は、自国の民の将来について神の助言を得るためにギリシア本土のデルポイにある有名なアポロンの神託所に詣でました。神を最も盛大にお祭りする儀式として百牛の犠牲(ヘカトンベー)というのが古代ギリシアにはありましたが、グリンノス王はこの百牛の犠牲のために牛百頭を連れて(本当に?)デルポイに詣でたのでした。牛も百頭ですから人間も王一人ではなく、多数の市民が随行していたようです。

 かのテラスの後裔でテラ島の王であった、アイサニオスの子グリンノスは、国から牛百頭の生贄を持参してデルポイへ詣でたことがあった。他の市民も彼に随行しており、その中にはミニュアイ人のエウペモスの子孫で、ポリュムネストスの子バットスも混っていた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、150 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)



上の引用に登場したエウペモスというのはアルゴナウタイの英雄の一人で、海の神ポセイドンの息子でした。海の神の息子ですので、海の波の上を歩くことが出来たといいます。その子孫がレムノス島に代々住み、その後スパルタに移り、それからテラスと一緒にテラ島に移り、テラ島でもその子孫が代々続いてポリュムネストス、バットスまで続いた、ということです。

テラの王グリンノスが国民の将来について神託を伺うと、デルポイの巫女はリビアに町を創設せよと託宣を下した。グリンノスが答えていうには、
「神よ、私はすでに年をとりすぎ、旅に出るにも体がいうことをききませぬ。どうかここにおりますもっと若い者に、その仕事をお命じ下さい。」
 彼はそういいながら、バットスを指したのである。
 この時はそれだけのことで、テラ人の一行はそれから帰国し、神託のことは一向に顧みなかった。彼らはリビアがそもそもどこにあるのかも知らず、また行先の不確かなところへ移民を送る冒険をおかす気にもならなかったからである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、150 から

上の引用に「デルポイの巫女」とありますが、これはアポロンの神託を告げる役目の巫女でした。デルポイの託宣所では巫女が神託を告げることになっていました。


さて、グリンノス王がバットスを指差したのは意図してのことだったのでしょうか? それともたまたまのことだったのでしょうか? それとも何かの神意によるものだったのでしょうか? それはよく分かりませんが、話を続けます。

 しかしそれから七年の間テラには雨がなく、その間にテラ島の樹木は一本を除いてことごとく枯れてしまった。テラ人が神託に問うと、巫女は(再び)リビアに植民すべきことを答えたのである。テラ人にはこの天災に対処するほかの手段もなかったので、クレタ島に使いを送り、クレタ人またはクレタ在留の外人で、かつてリビアへ行ったものがないかと探索させた。派遣された者たちはクレタ島内を隈なくめぐり、イタノスの町までも足をのばしたが、ここで彼らはコロビオスという名の紫貝採りの漁夫にめぐりあった。この男のいうところでは風に流されてリビアへ行ったことがあるが、それはリビアのプラテアという島であったという。テラ人はこの男を謝礼金で釣って説き伏せ、テラへ連れて帰ると、はじめは少数の人間が下見のためにテラを出帆していった。コロビオスはテラ人たちを例のプラテア島へ案内したが、テラ人は数か月分の食糧を置いてコロビオスをこの島に残し、自分たちは島のことを国許へ報告するために、急いで帰っていった。(中略)
 さてテラ人はコロビオスを島に残してテラへ帰ると、自分たちがリビア沿岸の島に植民地を拓いたことを報告した。テラ人は兄弟二人のうち籤に当った方の一人がゆくこととして、七つある地区の全部から移民を送ることに決め、さらにバットスを移民団の指導者ならびに王とすることを決議した。こうしてテラ人は二隻の五十橈船をプラテア島に送ったのである。(中略)
 彼らはこの島に二年間住んだが、格別好い運にも恵まれなかったので、一人だけをそこに残して残りの者は全部デルポイに向かって発ち託宣所を訪れると、リビアに植民したが一向に事態は好転せぬことを述べて神託を求めた。これに対し巫女は次のような託宣で答えた。
「行ったこともない汝が、行ったことのあるわしよりも羊飼うリビアをよく知っておるというのならば、汝の知恵にはわしも舌を巻くぞ。」
 この託宣を聞いてバットスの一行は元の島へ引き返した。彼らがリビアの本土に達するまでは、神が彼らを植民の義務から解放してくれぬことが判ったからである。そこで島に帰ると残していった男を収容し、島に相対してリビア本土にある、アジリスという土地に植民した。


ヘロドトス著「歴史」巻4、151〜157 から


このあと彼らはアジリスに6年間住んでいたのですが、リビア人がもっといい場所があるからと彼らに別の場所を紹介したため、そこに移りました。そこがのちにキュレネという町になり、この町は大いに繁栄したのでした。そしてテラとキュレネの間には友好関係が保たれたのでした。これはギリシア世界では珍しいことです。植民市と母市との関係は古代ギリシアにおいては希薄なのが普通でした。植民市と母市が敵対関係にあるというのも珍しくありません。そんな中でテラとキュレネの友好関係は珍しいものでした。バットスは王としてキュレネを40年間統治しました。




キュレネの遺跡

エーゲ海のある都市の物語:テラ(4):ミニュアイ人たち

テラスがテラに植民したところに話を戻します。
テラスはこの時、スパルタで政府に反抗していたミニュアイ人たちを一緒に連れていきました。ミニュアイ人というのはオルコメノスやという町を拠点とする人々のことですが、アルゴ号の乗組員(ギリシア語でアルゴナウタイといいます)もなぜかミニュアイ人と呼ばれていました。テラスが引き連れていったのもアルゴナウタイの子孫です。

アルゴ号の冒険の発端については「ミュティレネ(4):アルゴー号の冒険」に書きましたが、イオルコスの港からアルゴ号が出発してからのことは書いていませんでした。イオルコスの港を出てからアルゴ号が最初に上陸したのはレムノス島でしたが、その時レムノス島は女だけの島でした。これはたぶん男性の妄想が作った物語ですね。得難い宝(黄金の羊の毛皮)を求めての冒険の航海の最初の寄港地が、女だけの島というのは何ともしまらない話ですが、今に伝わる物語ではそうなっています。しかもアルゴナウタイの英雄たちは島の女たちとねんごろになり、子供まで儲けたのでした。

レームノス島の女はアプロディーテーを崇拝しなかったため、女神は女たちが悪臭を発するようにした。このため男たちは妻と寝ずに、トラーキア付近から捕虜の女を連れ帰って相手とした。侮辱された女たちは、夫や父親を皆殺しにした。このなかでトアース王の娘ヒュプシピュレーだけは父親を舟に隠して逃がし、命を救った。ヒュプシピュレーは女だけになった島を女王として治めた。アルゴナウタイは島の女たちに迎えられ、寝所をともにした。イアーソーンはヒュプシピュレーと交わり、息子のエウネーオスとネプロポノスが生まれた。


日本語版ウィキペディアの「アルゴナウタイ」の項より




黄金の羊の毛皮を獲得するというこのプロジェクトのリーダーはイアソンでしたが、彼にはスケジュール管理能力がまったくなさそうですね。そのうち、ヘラクレスが「いくらなんでもこのままじゃまずいだろう」とイアソンを急き立てたので、目的地のコルキスに向かったのでした。この英雄たちは島に妻子を残したまま(物語を信じるならば)二度とレムノス島には戻ってこないのでした。これまた無責任な話です。


とにかくこういうわけで、レムノス島にはアルゴナウタイの子孫であるミニュアイ人たちが住んでいました。それから長い年月が流れてドーリス人がペロポネソス半島に侵入した頃、アテナイからアテナイ人によって追放されたペラスゴイ人がレムノス島にやってきてこのミニュアイ人たちを追い出しました。ペラスゴイ人というのは今では実体がよく分からなくなった民族です。追い出されたミニュアイ人たちはペロポネソス半島のスパルタに向かいました。

アルゴー船に乗り組んだ勇士たちの子孫は(中略)ペラスゴイ人のためにレムノス島を追われ、海路スパルタに向った。そしてタユゲトス山中に屯(たむろ)して火を焚いていた。これを見たスパルタ人は使者をやって、彼らが何者でどこから来たのかを訊ねさせた。すると彼らは使者の問いに答えて、自分たちはミニュアイ人で、アルゴー船に乗り組んだ英雄たちの子孫であり、この英雄たちはレムノス島に上陸して自分たちの祖先となったのである、と語った。ミニュアイ人の素姓の説明をきいたスパルタ人はふたたび使者を送って、何の目的でこの国へきて火を燃やすのかと訊ねさせた。その答えは、ペラスゴイに追われたために父祖の国にきたのである。そうするのが一番正しいと思ったからだといい、スパルタ人の国にその特権や土地を分けて貰い、一緒に住まわせてほしいというのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻4、145 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)


ミニュアイ人の移動経路


レムノス島から追い出されたミニュアイ人たちがなぜスパルタを「父祖の国」というのかちょっと理解に苦しみます。本来ならばイアソンの故郷であるイオルコスを「父祖の国」と呼ぶべきです。しかしこの伝説ではミニュアイ人たちは「アルゴ号にはカストルとポリュデウケスの双子も参加していて、彼らはスパルタの出身だから」と説明します(ところでこのカストルとポリュデウケスはのちに空に上げられて星座のふたご座になりました)。この説明で納得するスパルタ人もどうかと思います。ともかくスパルタ人は彼らを受け入れ、土地を分け与えたのでした。また、スパルタの女との婚姻を許したのでした。ところが・・・・

それから何程の時もたたぬ間に、ミニュアイ人はみるみる増長し、王権に参与することまで要求し、ほかにも不法の行為が多かった。そこでスパルタ人は彼らを殺すことに決定し、捕縛して処刑のために監禁した。スパルタでは死刑囚は夜間に処刑し、昼間には処刑を行なわぬのである。さてミニュアイ人を処刑しようとしているとき、その妻たちが――いずれも生粋のスパルタ人で、名門の娘であった――獄舎に入ってそれぞれの夫に面会させて欲しいと頼んできた。スパルタ人は女たちの謀略にかかろうとは夢にも思わず、獄舎に入ることを許した。女たちは中へ入ると、自分の着ていた着物を全部脱いで夫に与え、自分たちは夫の着ていたものを身につけた。ミニュアイ人たちは女の衣装を纏って女のごとく見せかけ獄舎の外に出、このようにして逃れた彼らは再びタユゲトス山中に立籠った。


ヘロドトス著「歴史」巻4、146 から

ここでテラスが登場します。

獄舎から逃亡したミニュアイ人がタユゲトス山中に立籠り、スパルタ人が彼らを討とうとしているとき、テラスは彼らを殺さぬように頼み、自分が彼らを国外に連れ出すことを引き受けた。スパルタ人が彼の意見を容れたので、彼は三隻の三十橈船を連ねてメンブリアロスの後裔の許へ船出した。ただしミニュアイ人全部を連れたのではなく、連れていったのは少数のものだけであった。


ヘロドトス著「歴史」巻4、148 から

植民活動には不満分子を国から追い出すという意味もあったことを推測させる記述です。

エーゲ海のある都市の物語:テラ(3):エウロペを探すカドモス

フェニキアの王アゲノルにはポイニクス、キリクス、カドモスという3人の息子と、エウロペという娘がいました。このエウロぺが美しい少女へと成長した時に、神々の王ゼウスがオリュンポス山の頂にある神々の宮殿から地上を眺め渡し、彼女に目を止めたのでした。
ゼウスというのはちょくちょく人間の女に手を出す困った性格なのでした。しかもたちが悪いことに、当事者がこの宇宙の最高権力者なので、一旦、ゼウスが行動を起こすと誰も止めることが出来ません。せいぜいお妃のヘラが小言を言ったり、陰で嫌がらせをしたりするぐらいです。この時もゼウスは、お妃ヘラの眼を忍んで、エウロペに警戒されないためにおとなしい牡牛に姿を変えて、フェニキアへ赴いたのでした。

 エウローペー エウローペーは成長して美しい乙女となったが、ゼウスが彼女に恋し、侍女たちと浜辺で遊んでいる彼女に白牛の姿となって近づいた。恐れている王女に優しくじゃれつき、彼女が安心してその背中に乗ると、海を泳ぎ渡ってクレータ島に上陸し、ゴルテュンの泉の側で交わって、ミーノースとラダマンテュスが生まれた。


高津春繁著「ギリシア神話」より

ギリシア神話 (岩波新書 青版)

ギリシア神話 (岩波新書 青版)

最高権力者による拉致事件です。これは、どうにもなりません。さて娘の失踪を知った父親アゲノルはと言いますと、


 エウローペーの失踪後、国王アゲーノールは大いに怒りかつ心配して、三人の息子に命じて妹の行方を捜索させた。世界の隅々までいって、くまなく探して来い、見つからぬうちは、帰国を許すまいぞ、といった頑固さである。しかし大神ゼウスの秘したもうたものが、人間に見つけられるはずはないので、三人とも父を畏れてついに帰国せず、それぞれ赴いた土地に国を建てて住まった。ポイニクスはポイニキア人の、キリクスはキリキア人の祖というわけである。


呉茂一著「ギリシア神話(下)」より

ギリシア神話 下 (新潮文庫 く 6-2)

ギリシア神話 下 (新潮文庫 く 6-2)

 カドモス エウローペーの行方がわからなくなった時に、アゲーノールはカドモスとその兄弟たちに、姉妹を見付けるまでは帰国してはならないときびしく言い付けて、捜索に出した。彼らは母親をつれて国を出たが、エウローペーを見付けることが出来す、帰国もかなわぬままに、ポイニクスはフェニキアに、キリクスはキリキアに、カドモスは母と一緒にトラーキアに住まった。


高津春繁著「ギリシア神話」より

ギリシア神話 (岩波新書 青版)

ギリシア神話 (岩波新書 青版)

しかし母親まで、つまりアゲノルのお妃までエウロペの捜索に出させたというのはどういうことなのでしょうか? アゲノルが息子たちに見せた剣幕に反発して、「じゃあ、私も息子たちと一緒に行きますから」と言って出てきたのでしょうか? 妻と息子に出て行かれたアゲノルのその後が気になります。しかし、それについての物語は伝わっていません。
ところでカドモスとその母親はボスポラス海峡を渡ってヨーロッパ川のトラキアに赴きました。母親がカドモスと一緒に行動したのは、きっとカドモスが末っ子で、母親としては一番気になったからでしょう。


さて、「(2):テラスの植民」で引用した以下の箇所は、たぶんここに位置付けられるのでしょう。

現在テラと呼ばれている島は、以前はカリステと呼ばれていたがこれは同じ島で、当時はフェニキア人ポイキレスの子メンブリアロスの子孫が居住していた。すなわちアゲノルの子カドモスはエウロペの所在を探し求めながら、現在のテラに上陸したが、上陸後この地が気に入ったのか、あるいは他の理由があってそうしたのか、この島にフェニキア人を残していった。その中には自分の同族の一人メンブリアロスもいたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、147 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

カドモスがおそらくトラキアに行く前に、エウロペを求めてエーゲ海の島々を捜索したのだと思います。その時に彼はテラ島に、当時はこの名前ではなくカリステという名前でしたが、そこに来たとヘロドトスは書いています。正確にいうとヘロドトスはそれをテラ人から聞いたと書いています。テラ島の少し南(100km強)にはクレタ島があります。そこにエウロペはいた(拉致されていた)のですから、カドモスは惜しいところまで来ていたのでした。彼は、ここに自分の部下の一部を留め、自分は別の場所を探しに出発します。カドモスがテラ島まで来て、クレタ島に行かなかったことは、やはりゼウスの神力によるものなのでしょうか? その後のカドモスはと言いますと

やがて母が世を去ってから、カドモスはデルポイに来て神託を求めたところ、神は、牝牛を案内とし、牝牛が疲れて倒れ伏した所に町を建設せよ、と命じた。ある牛の群の中で月の印のある牝牛を見付け、そのあとをつけて行くと、ボイオーティアを通って、後のテーバイの市のあった所で横になった。


高津春繁著「ギリシア神話」より

カドモスは最終的には、エウロペ探索をあきらめて、テーバイ市を建設したのでした。このテーバイ市の建設にもいろいろ物語はあるのですが、テラ島の話から遠ざかるので、ここでは述べません。テラに関係する話としてはカドモスの子孫にテラスがいたということです。そして彼は当時スパルタに住み、妹アルゲイアがスパルタ王アリストデモスの妃になっていた関係で、重要な人物として重んぜられていたのでした。


ところでエウロペという名前はギリシア語でヨーロッパのことを意味します。キリクスが赴いたところがキリキアと名付けられ、ポイニクスが赴いたところがフェニキアと名付けられ、(上では引用していませんが)カドモスが建設したテーバイ市付近がカドメイアと名付けられたのであれば、エウロペが赴いたクレタ島が本来のエウロパ(=ヨーロッパ)だったのではないでしょうか? そしてそれが後世、今の意味でのヨーロッパにまで拡張されていったのではないでしょうか? だとすると「ヨーロッパ」という言葉に対になっている「アジア」という言葉はどのような伝説を背負っていたのでしょうか? それについて私はまだ回答を得ていません。このエウロペの伝説はなかなか気になっています。

エーゲ海のある都市の物語:テラ(2):テラスの植民

ドーリス人がペロポネソス半島に侵入した時の話です。ペロポネソスのスパルタを手に入れたのはヘラクレスの後裔アリストデモスでした。彼はアルゲイアをめとってエウリュステネスとプロクレスの双子を得ましたが、子供たちがまだ幼いうちに死んでしまいました。そこで彼の妻アルゲイアの兄であるテラスという者が双子の後見人となってスパルタの政治を執り行うようになりました。時は経ち、双子は成長してスパルタの王権をとるようになりました。奇妙なことですがこの双子はどちらも同時にスパルタの王になったのです。このあとスパルタはエウリュステウスの子孫とプロクレスの子孫の2つの王家を頂く特異な都市国家になりました。それはともかくとして、テラスはといいますと・・・・

ひとたび王権の味を知ったテラスは他人の支配下に甘んずることは耐えがたいとして、自分はスパルタに留まるつもりはなく、海外の同族の許へゆきたいといいだした。


ヘロドトス著「歴史」巻4、147 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)


この「海外の同族の許」というのがテラ島でした。この島はテラスが行ったのでそれにちなんでテラという名前になったのであって、その前の名前はカリステ(「最も美しい」という意味)という名前でした。

現在テラと呼ばれている島は、以前はカリステと呼ばれていたがこれは同じ島で、当時はフェニキア人ポイキレスの子メンブリアロスの子孫が居住していた。すなわちアゲノルの子カドモスはエウロペの所在を探し求めながら、現在のテラに上陸したが、上陸後この地が気に入ったのか、あるいは他の理由があってそうしたのか、この島にフェニキア人を残していった。その中には自分の同族の一人メンブリアロスもいたのである。この者たちが当時カリステと呼ばれていたこの島に、テラスがスパルタから来島するまで八代にわたって居住していた。


ヘロドトス著「歴史」巻4、147 から



ということはテラスはフェニキア人なのでしょうか? ヘロドトスはそうだと考えていたようです。

ギリシア神話によりますとテーバイ(エジプトの町テーベではなくて、ギリシア本土の中部にある町)の王家の始祖カドモスはフェニキアからやってきたということになっています。するとテーバイはフェニキアの町だったかといいますと、その後の物語の中では普通のギリシア人として扱われているので、ここにどのような事情があったのかよく分かりません。ギリシア神話ではギリシア人と他の民族の境界が時々不明確になっています。さてテラスはこのフェニキアからやってきてテーバイを建設したカドモスの子孫にあたっていました。それでカリステに住む人々を自分の同族と言ったのでした。カドモスからテラスに至る系譜は以下のようになっています。

  • 1.カドモス
    • テーバイ市の建設者
  • 2.ポリュドロス
  • 3.ラプタゴス
  • 4.ライオス
  • 5.オイディプス
  • 6.ポリュネイケス
    • 兄のエテオクレスとテーバイの王位を争ってアルゴスに逃れ、最後はテーバイ攻防戦の一騎打ちで兄弟ともに死ぬという伝説が残っていて、やはりギリシア悲劇の題材になっています。
  • 7.テルサンドロス
    • 父ポリュネイケスの悲願だったテーバイの攻略に成功する。その後、トロイア戦争に参加するが、軍が間違ってトロイアの代わりにテレポスの領土を攻めた時にテレポスに討たれて死ぬ。
  • 8.ティサメノス
  • 9.アウテシオン
  • 10.テラス

このテーバイの王家にまつわる伝説は面白いのですが、それを述べ始めるとテラから話がそれてしまいますので、最初のカドモスの話だけをご紹介したいと思います。上の引用で登場した「アゲノルの子カドモスはエウロペの所在を探し求めながら、現在のテラに上陸した」という記述の背景になる物語です。