神とゴーレム(株)(God and Golem, Inc.)―――ゴーレム伝説についての補足

ゴーレム伝説について、かなり古い記述(1973年)ですが、ドイツ文学者の種村季弘氏の「ゴーレムの秘密」でなされた説明を引用します。


「怪物の解剖学」種村季弘著 河出文庫(1987年) 所収の「ゴーレムの秘密」(初出は「ユリイカ」1973年1月号)より

・・・・ヴェーゲナーの映画も十七世紀の古色蒼然たるプラーハに材をとっている。サイレント映画の傑作『巨人ゴーレム』は、いまも映画ファンの間には人気が高いらしく、せんだっても私は若い世代でスシ詰めの杉並公民館のスクリーンで、久しぶりにパウル・ヴェーゲナー自演のゴーレムやエルンスト・ドイッチュ演ずるところのファルムスの姿に再会する機会を得た。ルドルフ2世の宮廷の大混乱や、猶太人区(ゲットオ)の世界終末的な恐慌(パニック)や、そのなかで律師(ラビ)や長老が執りおこなうメシア待望の集会や、ラスト・シーンの少女を抱き上げて死んでゆくゴーレムの清浄無垢の姿に旧に変らず堪能しながら、この映画が取材した十六世紀末のユダヤ人律師ロェーヴ師にまつわる伝説がしだいによみがえってきた。・・・

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・・・ちなみにロェーヴ師のゴーレムの没年は1593年5月10日である。この日付は十六世紀東欧におけるユダヤ人迫害(ポグローム)の歴史を想起させる。民族の危機の時期に、密室に閉じ込められたゴーレムが、果然、明るみに引き出されて迫害者に抵抗したのであった。・・・

 伝説にしたがってロェーヴ師のゴーレム製作の経緯を再現してみよう。プラーハにポグロームの猖獗した1580年、ロェーヴ師は大災厄から逃れる道を求めて空しく祈祷と瞑想に耽っていた。するとある夜、夢のなかに神の御姿が現われて、粘土の塊からゴーレムを創るがいい、と告げられた。律師(ラビ)は二人の助手とともにモルダウ河の河畔で一体の泥人形をこしらえた。それからまず助手の一人が左から右へ人形の周りを七回まわり、律師が呪文を唱えるとゴーレムは炎のように燃え上った。つぎに第二の助手が呪文を唱えながら同じく人形の周りを右から左へとまわった。すると炎は消えて身体から濛々たる湯煙が上り、頭部には髪が、指先には爪が生え出た。ついで律師(ラビ)が無気味な生き物の周りをまわり、その間中三人は創世記の「エホバ神(かみ)土(つち)の塵(ちり)を以(もつ)て人を造(つく)り現気(いのちのき)を其(その)鼻(はな)に嘘入(ふきいれ)たまへけり人(ひと)即(すなわ)ち生霊(いけるもの)となりぬ」(二-七)をくり返し唱えた。最後にロェーヴ師が羊皮紙に書いたシェムの字を泥人形の唇の上に貼りつけると、ゴーレムはぱっちりと眼を開いて周囲をおもむろに見回し、それから獣のようにむっくりと立ち上がった。
 一同は彼に衣服を着せ、靴をはかせた。こうしてロェーヴ師のゴーレムはあらゆる点で人間そっくりになったが、口をきくことだけはできなかった。言語能力を授けることは、神自身ですら保留されたからである。以来、ゴーレムは週日には下僕となってまめまめしくかしずき、安息日になると聖名を剥ぎとられて休息した。言葉を喋れないという点を除けば、人間をしのぐ働きを見せ、護符のお蔭で自在に姿を見えなくすることができるのでスパイとしては最高に重宝であり、また味方の政治的暗殺や儀式殺人の容疑を適宜自分の身に引き被って敵方の告訴を無効にするのにも役立った。こうして十三年間猶太人区(ゲットオ)の守護霊として働いてから、ポグロームがようやく下火になるとともに用を終える時を迎えたのであった。


残念ながら種村氏は、ゴーレムをサイバネティクスと結びつけていません。薔薇十字関係の論考やエッセイをいくつも残した種村氏のこと、結びつけていたらおもしろい話を物語ってもらえただろうと思うのですが、今、言ってもせんない話です。
おもしろいのは、ウィーナーの先祖はまさに東欧のユダヤ人だということです、本人はキリスト教の環境で育ったみたいですが。そして、ウィーナー自身、自分の祖先が上に登場するロェーヴ師である可能性をほのめかしていたそうです。そして、もう一人同じようなうわさを持っていたのが、コンピュータの父フォン・ノイマンです。彼はハンガリーユダヤ系の出身でした。このようなことを書いていたら、コンピュータの背景としてのユダヤ神秘思想ということで、ちょっと調べてみたくなりました。


さて、以上の伝説を踏まえて、ウィーナーの著書「神とゴーレム」に戻って考えると、私はこの本のタイトルの意味するところは

  • 「『神と人』そして『人とゴーレム』」

ではなかったかと思います。神が人を造ったように、人がゴーレム(精密な機械、特にITを駆使した機械)を造った。その2つの創造行為は並行関係にある。人間が作り出す機械がより生物や人間に近づくにつれて、人間は神の創造行為をなぞるようになる。そこには何か不遜な雰囲気が漂う。科学の進歩を止めるべきではないが、その何がしか不遜な雰囲気から眼をそらすべきではない。科学の進歩は人間にさらなる倫理観を要求する。それが欠けた場合には科学は古代・中世に忌み嫌われた黒魔術に似たものになる。

 以上で述べてきたいくつかの話は、創造的活動というものを、神のそれから機械のそれまで全体にわたり同じ一組の概念のもとで扱っているということにより統一されている。機械は、すでに述べたように、プラハユダヤ教律法博士のつくったゴーレムの近代的化身である。以上で私は、創造的活動というものを、神のそれと、人間のそれと、機械のそれとにばらばらに分けてしまわずにあくまで一個の表題のもとで論じてきたから、本書の署名を著者としての自由を乱用したというおそれなしに、
 ゴッド・ゴーレム商会(GOD AND GOLEM, Inc.)と定める。


「神とゴーレム」(邦題:科学と神)の最終部分