北欧神話と伝説(3)

北欧伝説を読んでいてよく分からないのが、北欧神話の主神オーディンに対する当時の人々の感情です。オーディンは主神なので人々は全面の信頼を置いているかといえばそうでもなく、時にはズルいことをして自分を欺くヤツ、勝てないけれど悔し紛れにののしる対象、でもあったようです。そんな神が自分たちの信仰の主神であったいうのがよく分かりません。
ユダヤキリスト教の伝統ではもちろんのこと、古代ギリシアにおいても一番えらい神(ギリシアの場合はゼウスですが)に対して人間がこうまで不信感を抱くことはないような気がします。


たとえば、昨日ご紹介した「スギョルド家とハドバルド家」の物語の最後、ロルフ王の最後の戦いのところでは、彼の配下の勇士ベズワルは、敵兵が一旦は倒されても、また起き上がってくるのを目にします。明らかに超自然の何者かが敵に加勢していることをベズワルは悟ります。そこで彼が言うのは

「戦いの恐怖と自分を呼ぶ片目の男(オーディンをさす)は、どこにいるのだ。彼奴は例のマントを着て変装しているのか? どこにいるのか、姿をみせろ。彼奴が空を飛ぶ例の馬に乗っているのなら、おれが引きずり下ろして、ひねりつぶしてやるわ。われわれの首領を裏切った、嘘つきの巨人め!」

という言葉です。ゼウスに対してこんな言葉を吐くギリシア人は想像できません。このベズワルの言葉に対して、同じくロルフ王配下の勇士ヒャルデは

「貴様の武器を人間に対して向けろ、英雄的な戦士よ、そして運命を咎めないことだ」

と忠告します。
では神々の王オーディンに逆らってもなぜベズワルは戦うのでしょうか? それは、この戦いに直面してヒャルデが叫んだ言葉に表されているように思えます。

「今こそわれらの王の手あついもてなしに報いるべき時が来たぞ。・・・・彼はベンチに座ったわれらに高価な武器を贈物にした。いまやわれらが王の贈物に値した戦士であることを彼に示すべく、それを帯びて出陣しよう。スギョルド家に仕える許しをえた者は幸福を知ったのであり、王の傍らでたおれる者は、彼と共に、墓を越えた不死の名誉をうるのだ」

彼らにとっては神々よりも人間のほうが、そしてその信義のほうが、大切なのだということなのでしょう。ある点において、人間は神々から独立しているのです。