答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(5)

私は今まで答志島にワカヒルメのミコトの聖地があったように推測を進めてきましたが、岩波文庫日本書紀の補注ではそのような推定がなされていません。

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)

どういうふうに推定しているかといいますと、日本書紀の神功(じんぐう)皇后の巻のところに書かれた神の託宣の言葉

  • 「尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)に所居(を)る神有り」

を、927年に出来た「延喜式神名帳」という文献と比較して、以下の文章に注目しています。

答志郡 三座 大二座 小一座
粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座 並大
同嶋坐(同じきしまにいます)神乎多乃(かむおたの)御子(みこ)神社


まず、

答志郡 三座 大二座 小一座

について説明しますと、志摩国(しまのくに)答志郡には朝廷が認めて祭祀を行う神社が3つあり、その2つは重要な神社(大社)であり、残りの1つはそれほど重要な神社ではない(小社)という意味です。次の

粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座

というのは、これは粟島(あわしま)というところに鎮座する伊射波(いざは)神社が2つ、ということです。そのあとに

並大

と書かれているのは、2つの神社の両方とも大社(重要な神社)である、という意味です。
岩波文庫日本書紀の補注では、託宣にあった「淡郡(あわのこおり)」とこの延喜式神名帳にある「粟島(あわしま)」が、おそらく同じ地名のことを指しているのだと推論しています。さらに次に

同嶋坐(同じきしまにいます)神乎多乃(かむおたの)御子(みこ)神社

の「乎多(おた)」と託宣にある「尾田(おだ)」が関係があるとして、上の推論を補強しています。
そして、であるからには、ワカヒルメのミコトの祭祀が行われている場所はこの「伊射波(いざは)神社」であるとしています。そして、これは、現在の伊雑宮(いざわのみや)であるとしています。


伊雑宮(いざわのみや 左写真)というのは、三重県志摩市磯部町上之郷にある神社で、伊勢神宮内宮の別宮という格式の高い神社で、「天照大神の遙宮(とおのみや)」とも呼ばれています。伊勢神宮の別宮、摂社、末社のなかで「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれているのは、この伊雑宮ともうひとつ、度会郡大紀町に鎮座する瀧原宮(たきはらのみや)しかありません。でも、この神社は答志島にあるわけではありません。これはいったいどうしたことでしょうか?


実は、答志郡というのは答志島だけでなく本土も含む地域の名前で、この志摩市磯部町も答志郡に含まれる、というのです。私は、「田節(たふし=答志)の淡郡(あはのこほり)にをる神」というところから、素直にこれは答志島である、と考えたのですが、どうもそれは間違いらしい、ということになってしまいます。


でも、そうすると私の答志島に対するロマンが消えてしまうことになり、私は困ってしまいます。学者ならばロマンの有無で学説を立てるのはもってのほかで、きっと証拠が全てなのでしょうが、しかし、私は学者ではありません、歴史に関してはただの物好きのシロウトです。であるならばシロウトであると居直って、この、「尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)に所居(を)る神」が伊雑宮の神であるという説に反論を試みてみましょう。


私がひっかかるのは、「粟嶋坐(あはしまにいます)」というところです。伊雑宮のある場所はどう見ても島には見えません。リアス海岸の海が奥まったところの先にある場所で、古代にはもっと海岸線が近づいていたと考えても島であると見るのは難しそうです。(下に地図を示します。)

これとは別に「あわしま」という名前の島がこの地方にあれば、これでスッキリ解決になるのですが、残念ながらこのような名前の島はありません。私は、ひょっとしたら答志島は昔は「あわしま」という名前だったのではないか、とも考えました。だとすれば、私の答志島ロマンは復活するのですが、しかし、これには証拠がありません。



もうひとつ、伊雑宮(いざわのみや)説に対する疑問を述べれば、先にもご紹介した柿本人麻呂の歌

  • 釧(くしろ)着(つ)く 答志の崎に 今日もかも 大宮人(おおみやびと)の 玉藻(たまも)刈るらむ

が心に浮かびます。ここには「答志の崎」と書かれています。伊雑宮はどう見ても岬に鎮座しているようには見えません。ここで人は、「この柿本人麻呂の歌の歌っている場所と『尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)』とが同じ場所を歌っているという証拠はない」と言うかもしれません。しかし、私には持統天皇が遊ぶために答志島(かどうかは分からないが答志郡のどこかの海辺)に行ったとは思えないのです。この時の行幸は西暦692年に行われており、これは伊勢外宮の第1回式年遷宮の行われた年です。日本書紀にはそのことは書かれていませんが、これはおそらく伊勢神宮の権威を高め、天武天皇が始めた、皇祖神のイデオロギーを確固としたものにするために行った極めて政治的かつ宗教的な行幸だと思います。そして、720年に完成した日本書紀には、この近くの答志郡に強力な女神がいたことを物語る神話が収録されているのです。持統天皇がこの神話を知っていた可能性は大でしょう。そうだとすると、持統天皇はそのゆかりの地を訪れたにちがいない、と私には思えるのです。そして柿本人麻呂の歌には、公的な儀式のための歌も多いことを思うと、これは単に宮廷の人々の海辺での遊びを想像して歌った歌ではなく、ある重要な儀式の一場面を寿ぐために歌った歌のように思えるのです。


ですから、私には柿本人麻呂の「答志の崎」こそ、「尾田の吾(あが)田節(たふし=答志)の淡(あわの)(こほり)」にあるのではないか、と考えるのでした。