答志島にはワカヒルメのミコトが住むか?(6)

岩波文庫日本書紀の補注では、「田節(たふし=答志)の淡郡(あはのこほり)にをる神=ワカヒルメのミコト」の社(やしろ)を、三重県志摩市磯部町上之郷にある伊雑宮(いざわのみや)と推定しているというお話をしました。実は、この伊雑宮(いざわのみや)には1つの未解決な問題があります。というのは、ここから15kmほど北北東にいったところに、もう一つ「いざわ」の名を持つ神社があるのです。これは「伊射波神社」といいます。そうです。「延喜式神名帳」に

粟嶋坐(あはしまにいます)伊射波(いざは)神社二座

と書かれていたのと同じ漢字を用いています。三重県鳥羽市安楽島(あらしま)町にある加布良古(かぶらこ)崎に鎮座していて、地元では「かぶらこさん」と呼ばれて親しまれています。場所を地図に示します。

さきに、1つの未解決な問題といったのは、「延喜式神名帳」に記された「粟嶋坐伊射波神社」は、どちらの神社を指しているのか、という問題です。以下のような説があるようです。

  • 1.「延喜式神名帳」に記された「粟嶋坐伊射波神社」とは、この鳥羽の「伊射波神社」であるという説。
  • 2.そうではなくて、内宮の別宮である「伊雑宮」であるという説。
  • 3.「延喜式神名帳」には「二座」と記されていることに注目して、その片方が「伊雑宮」を指し、もう片方が「伊射波神社」を指しているという説。


どの説が正しいのかは分かりませんが、それはともかくとして、伊射波神社がどんな神社なのか、ご紹介したいと思います。


というのは、私はこの伊射波神社には2013年に行きましたが(「かぶらこさん(伊射波(いざわ)神社))、その時、あたりの景色に魅了されたからです。社殿は山の中にあるのですが、印象に残ったのは海岸にある石の鳥居です。



この神社も答志島にあるわけではないのですが、私の好みとしては、こちらの神社のほうを支持したいです。そして、何と、この神社の主要なご祭神はワカヒルメのミコトなのです。
さて、今回、Wikipediaの「伊射波神社」の項を読んで、おもしろい箇所を見つけましたので引用します。

創建の時期は不詳だが、1500年以上の歴史を持つといわれる。『諸国一の宮』によれば、当社は稚日女尊*1海の道*2から加布良古崎へ祭祀したのが起源で、志摩国海上守護神として古代から崇敬されたと言う。


Wikipediaの「伊射波神社」の項

上の記事には「海の道」とは何のことなのか説明がありません。しかし、私はこれを航路と考えました。そして、その航路は答志島を経由する航路ではなかったか、と想像しました。私の想像を支えてくれる文章を引用します。これは、溝口睦子著の「アマテラスの誕生」に書かれてある文章です。

東方経略の基地としての伊勢
(中略)詳しい考証は直木氏*3の論考にもあり、また最近では川添登氏の『伊勢神宮』にもあるのでそれらに譲るが、古くからこの地域*4は、海路で東国地方へ渡る際の交通の要衝だった。「百船(ももふね)の度会(わたらい)の県(あがた)」という、「度会」(伊勢神宮のある地域の地名)についた「百船」という枕詞は、多くの船が絶え間なく行き交うこの地の状況を彷彿とさせる。川添氏によれば、大和から東国へ行くのに、陸路で鈴鹿を越えて尾張へ出るコースと、南大和から櫛田川を河口まで下って、伊勢湾の海浜から、現在の愛知県渥美半島の先端である三河に渡る海路のコースがあるが、海路のコースが最短で早かったという。
(中略)『万葉集』の麻続王(おみのおおきみ)をうたった歌(巻一、二十三)の題詞に「伊勢国伊良湖嶋」といった表現がみられるなど、伊勢と対岸の三河伊良湖とは海路による交流が密接で、都の人にとっては両地域が、心理的にきわめて近かったことを語っている。
(中略)いずれにしても、ヤマト王権にとっての東国の重要性を考えれば、伊勢のこの地域が、東方への交通の要衝として、戦略上きわめて重要な地域であったことは確かである。


溝口睦子著「アマテラスの誕生」より


どうでしょう、ワカヒルメのミコトがここ(=加布良古(かぶらこ)崎)に鎮座する前にいた「海の道」というのは答志島であるように思えてきませんか?

*1:ワカヒルメのミコト

*2:強調したのは私

*3:直木孝次郎氏

*4:伊勢神宮周辺の地域