ウォルター・ピッツについて

悲劇のアメリカ人数学者ウォルター・ピッツについての抜書き

ウォルター・ピッツは、ぎこちない、痛々しいほど内気な天才少年数学者で、・・・・・(中略)
1938年、レットヴィン(のちのMITの電気工学と生物医学工学の教授)がピッツと出会ったときは、シカゴ大学の予備学生だった。「ウォルターの父は配管工で、息子を殴りつけていたので、ウォルターはとうとう逃げ出し、浮浪児になりました。ある日、仲間に追いかけられて図書館に逃げ込み、本棚の間に隠れたんですが、そこが数学書のコーナーでした。(ラッセルとホワイトヘッドの)『数学原理』に出くわし、それをやめることができなかったんです。一週間図書館に通い、3巻とも読み通しました。そして腰を下ろして第1巻の長い一節に関する批評を書き、それをイギリスのラッセルに送りました。ラッセルは好意的な返事を出しました。ウォルターに、ケンブリッジの大学院で勉強するよう誘う手紙を出したのです――言っときますが、相手は13歳ですよ」
 (中略)ピッツはラッセルの誘いを受ける状況にはなかった。2年後、ピッツはシカゴに来て、ラッセルが行なった数理論理学の講義に出た。ラッセルは1938年の秋、シカゴ大学客員教授となっていた。レットヴィンとマカロックによるそれぞれの話によれば、ラッセルはピッツに、ルドルフ・カルナップという、ウィーンの論理実証主義者の指導者のところで勉強するよう指導した。カルナップは最近、オーストリアからアメリカへ来て、シカゴ大学に落ち着いたところだった。その秋、高卒の資格もないまま、ピッツはシカゴ大学のもぐりの学生となった。


「情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝」の「第7章 循環する因果の騎士たち」より

情報時代の見えないヒーロー[ノーバート・ウィーナー伝]

情報時代の見えないヒーロー[ノーバート・ウィーナー伝]

 論理数学の分野からサイバネティックスの研究に転じたもう1人の若い研究者はピッツ(Walter Pitts)である。かれはシカゴにいるカルナップ(Carnap)の弟子であったが、ラシェフスキー(Rashevsky)教授を中心とする生物物理学者の学派とも接触を保っていた。ついでながらこのグループは、数学的な考え方をする研究者たちの関心を、生物物理学がもっている可能性に向けるのにひじょうに貢献したのである。もっとも、このグループの人たちは、エネルギーやポテンシャルなど、古典物理学的な方法ばかりを主として用いているので、神経系のような、エネルギーから見て閉じていない系の研究では、最良の結果に到達できないのではないかとの批判もある。
 ピッツ氏は幸いにもマッカロの影響を受けることになり、2人は、神経繊維がシナップスによって結びつけられて系をなし、全体としてある機能特性をもつにいたるまでについての研究を、いち早く取りあげた。彼らはシャノンとは独立に、本質的には継電器回路の問題に帰しうる問題の研究に、論理数学を適用したのである。彼らはシャノンの初期の研究ではあまりはっきりしなかった次のような要素を付け加えた。それは確かにテューリングの考えから示唆されたものであろうが、時間をパラメターとして使うこととか、循環回路を含む網状構造の考慮とか、シナップスなどによる時間的遅れなどである。
 1943年夏に、私はボストン私立病院のレットヴィン(J. Lettvin)博士に会ったが、彼は神経の機構にひじょうに興味をもっていた。彼はピッツ氏の親しい友人であったので、ピッツ氏の研究のあることを私に教えてくれた。彼はまたピッツ氏にボストンにきて、ローゼンブリュート氏や私と知己になるようにすすめた。そんなわけで、われわれは、彼を喜んでグループに迎えたのである。1943年秋、ピッツ氏はマサチューセッツ工科大学にきて、私といっしょに研究し、数学的基礎を固めて、サイバネティックスの研究をすることとなった。もっともその頃この新しい科学は、たしかに生まれてはいたけれども、まだ名前はついていなかったのである。
 当時、ピッツ氏はすでに論理数学と神経生理学には精通していたが、あまり工学の方面とは接触する機会をもっていなかった。特に彼はシャノンの研究を知っていなかったし、電子工学によって可能になるいろいろなことも知っていなかった。だから私が最近の真空管の見本を示して、ニューロン系の等価回路を実現するにはこれが理想的なものだと説明したとき、彼はひじょうに興味を感じたようであった。


サイバネティックス」の「序章」より

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)


よく考えてみれば、ピッツとマカロックの共著になる画期的な論文「A logical calculus of the ideas immanent in nervous activity 1943」(神経活動に内在する思考の論理計算)はピッツがウィーナーの下に来る以前に発表されていたのだった。ピッツ20歳のときである。ウィーナーは、ピッツの才能にほれ込み、自分が彼の才能を育て上げる決心をしたのだが、ピッツの才能をつぶしたのはほかならぬウィーナーだった。上記の「サイバネティックス」が公刊されたのは1948年だが、早くも1952年にはウィーナーはマカロックとピッツに絶交を言い渡した。ウィーナーが何に激怒したのか不明である。「情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝」によれば、ウィーナーの妻がマカロックとピッツについて虚偽の中傷をしたためだという。
このショックでピッツは精神的に立ち直れなくなってしまった。まだ29歳である。非常に残念なことである。
ピッツとマカロックの「A logical calculus of the ideas immanent in nervous activity 1943」については、フォン・ノイマンが1951年の「人工頭脳と自己増殖――オートマトンの論理学概論」で、その意義をこう評価している。

人間の神経系の活動は作用がきわめて複雑なので、普通のメカニズムではおそらくこのような活動と機能を遂行することはできないであろう、としばしば主張されてきた。本質的にこの限界を示すような特殊な作用をあげる試みも、しばしば行なわれてきた。・・・・・・・マッカロー・ピッツの理論の結果が、これに終止符を打った。それは、徹底的に、かつ曖昧さがなく記述できるものはなんでも―――完全にかつ明瞭にことばに置き換えられるものはなんでも―――適当な有限の神経回路網*1によって事実上実現しうることを証明している。逆の言い方は明らかであるので、われわれは現実の―――あるいは想像上の―――行動の様式を完全かつ明瞭にことばで記述することができるということと、有限の神経回路網によってそれを現実化することができるということとの間には、なんの違いもないということができる。


フォン・ノイマン「人工頭脳と自己増殖――オートマトンの論理学概論」品川嘉也訳 より

「ピッツは時代に先駆けていました」とレットヴィンはピッツの博士論文のテーマについて言う。「ピッツは層をなした仕掛け、3次元ネットを考え、そういう装置が、入れられた情報に対して見せそうな性質を調べていました。それをアナログで、連続の数学を使って行なっていました。ウィーナーはこれを大いに気に入っていました。他には誰もそんなことはしていませんでした。ピッツは、膨大な量の仕事をしていて、興味深い結果が出たものもありました。重要な内容――3次元の系での情報処理の一般化した理論――のものを、すでに200枚から300枚書いていましたが、ウィーナーが爆発したとき、ピッツはぴたっと止まってしまいました」。


「情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝」の「第11章 不和と裏切り」より

 ウォルター・ピッツは1960年代をいかがわしいバーで過ごし、手がつけられないほど震えないことには、2つの文を話すこともできないほどの振顫譫妄症になった。MITは、大学に足を踏み入れることもなかったピッツを講師として残し、受領したという書類にサインしさえすれば博士号を出すことまで承認した。ピッツはそれを断った。1969年5月、46歳のとき、ケンブリッジの下宿屋で、重度のアルコール依存症の合併症により、一人で亡くなった。


「情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝」の「第16章 幼年期の終わり」より