ミノア時代のアクロティリ in サントリニ島

このところずっと線文字Aに興味を持っていて、その流れで、英語版のWikipediaの「サントリニ島(Santorini)」の項の中の「ミノア時代のアクロティリ(Minoan Akrotiri)」の条を翻訳しました。それをアップします。

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故スピリドン・マリナトス教授のもとアクロティリと呼ばれる遺跡で1967年に開始された発掘はテラを、この文明の故郷であるクレタ島以外で最もよく知られたミノア時代の遺跡にした。この時までこの島はテラとしては知られていなかった。大きな町の南の端だけが発掘されたが、それでも2階建て以上の建物や道や、8mぐらいの高さで建つ壁の遺構に囲まれた四角い広場が現れた。それらは全て有名なテラの噴火の灰の固化したものの中に埋まっていた。この遺跡はクレタで発見されたような宮殿複合体ではないが、すばらしい石造建築と壁画が、これが確かに商人たちの倉庫以上のものであることを示している。機織り場は輸出のために組織された織物業を示唆している。この青銅器時代文明は紀元前3000年から2000年に栄え、2000年から1580年にそのピークに達した。


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アクロティリの家のいくつかは大きな構造を持ち、その中のいくつかは3階建である。その通りと広場と壁は火山からの噴出物の、時には8mほどの高さの層で保存され、これが大きな町であることを示していた。 多くの家では石の階段は無傷のままで、それらの家では巨大な陶器製の貯蔵用がめ(ピトイ)やひき臼や陶器類があった。アクロティリで発見された注目すべき考古学的遺物は壁画やフレスコ画であり、それらは数mの火山灰の下に守られたので、よく原色を保っている。町には非常に発達した排水システムもあり、そのすばらしい工芸品から判断して、その市民はとても洗練され、比較的裕福な人々であった。


アクロティリで発見された水道管と水洗便所は、発見されたそのような施設のうち最も古いものである。水道管は2系統で走っており、それはテラ人が温水、冷水の両方の給水を使ったことを示している。温水の元は、たぶん火山の近くで得た地熱であろう。2系統の水道管や進んだ建築とアクロティリの見た目のレイアウトは、伝説の失われた都市アトランティスについてのプラトンの記述との類似を示しており、さらにミノア文明が、アトランティス伝説に主に霊感を与えた文明であることを示している。

アクロティリの壁画の断片は、古典ギリシアの装飾でおなじみの宗教的あるいは神話的内容の頻出を欠いている。 その代わりに、ミノアのフレスコ画は「サフランを摘む人々」を描く。その人々は座っている女性(おそらく女神)にクロッカスのおしべを差し出している。 クロッカスは、月経痛の軽減を含む多くの薬効を持つと知られている。このことはサフラン/クロッカスを摘む人々のフレスコ画が、女性の思春期を扱っている成人式のフレスコであると多くの考古学者が信じる原因になった。


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別の家では、他のフレスコ画とともに、一種の自信に満ちた流れる装飾筆記体のような線で描かれた2匹の鹿や、えらのところで結わえられた魚の2つのひもを持つ有名な漁師のフレスコや、飛び跳ねるイルカと進む遊覧船(そこでは軽い天蓋の下で女性がくつろいでいる)の隊列がある。


この保存状態の良い古代都市の遺跡は、しばしばイタリアのポンペイの素晴らしい遺跡と比較される。遺跡を覆っている天蓋は2005年9月に事故で崩れ、1人の観光客が死亡し7人が負傷した。 新しい天蓋が作られるまで、遺跡はほぼ7年間、閉鎖された。遺跡は、2012年4月に再開された。
人間の居住地の最古の痕跡は新石器時代後期(紀元前4千年以前)であるが、紀元前約2000年から1650年にアクロティリ青銅器時代エーゲ海の主要な港の1つに発達し、クレタ島からだけでなく、アナトリアキプロス、シリア、エジプト、そしてドデカニス諸島やギリシア本土から来た物が出土されている。