ゲーム理論に関して思い出す事

一昨日紹介した

を読んでいて、私はしばしばノーバート・ウィーナーの言葉を思い出していました。このブログのいろいろな個所に書いているように、私はノーバート・ウィーナー(1894年 - 1964年)という数学者かつ思想家に偏愛を抱いているので、いろろなことを判断する材料のひとつとしてウィーナーの言葉を用いることが多いのです。


まず上記の本に紹介されている2時45分のフラッシュ・クラッシュ、つまり2010年5月6日に、アメリカのニューヨーク証券取引所で起きた2時40分からのたった5分間にダウ平均株価が573ドル急落し、2時47分からの1分半に今度は543ドルも急騰した、という現象を読んだ時、このような不安定性について、次のようなウィーナーの言葉を思い出しました。以下の言葉は1948年、今から65年も前にウィーナーが書いたことですが、なかなか現代でも鋭い視点だと思います。

市場は・・・・実際一つのゲームなのである。それは、フォン・ノイマンとモルゲンステルンが展開したゲームの一般理論に厳密に従うものである。この理論は次の仮定の上に立っている。すなわちゲームをする人は各自、それぞれの段階で得られている情報にもとづいて、可能な最大の報償の期待値を保障するような手を完全に理詰めに打つという仮定である。・・・・
・・・・三人のゲームでは多くの場合、また大勢でするゲームでは圧倒的に多くの場合に、極度に不確定かつ不安定な結果を得る。個々の遊戯者はそれぞれの利益のために提携しあうようになる。しかし、この提携も一般には一つのはっきりきまった方法でなされるのではなく、たいていは裏切り・変節・詐欺などの混乱状態に終り・・・・・・これに嫌気がさして、お互に平和に暮そうと申合せるようなことになると、この申合せを破り、仲間を裏切る機会をうかがっていた男に大きなもうけがころがりこむことになる。そこには恒常作用(homeostatic process)などまったくない。


ノーバート・ウィーナー 「サイバネティックス」の「第8章 情報、言語および社会」より


そしてウィーナーは資本主義社会についてこう結論付けます。かといって彼は社会主義に対しても懐疑的でしたが。

・・・社会政治に関するもっとも驚くべき事実の一つは、有効な恒常作用が極度に欠けていることである。


同上


もう一つは1961年に追加された「第9章 学習する機械、増殖する機械」に出てくる記述です。これはゲーム理論の仮定に対するウィーナーの批判とも考えられます。

フォン・ノイマン流の近似理論にしたがえば、相手が絶対にまちがうことのない名人であると考えて、最大の注意をはらってゲームをおこなうことになる。
 しかしこの態度がいつも正しいとはかぎらない。ゲームの一種ともいえる戦争にこんな態度でのぞめば、敗北とあまりちがわない優柔不断の行動ばかりをとることになろう。・・・・ナポレオンがイタリアでオーストリア軍と戦ったとき、オーストリア軍の考え方は、偏狭で因習的であることを知っており、フランス革命軍が発展させた果断な作戦の虚をつくなどということはあり得ないと判断したのは正しかった。それはナポレオンが有能であったからである。


ノーバート・ウィーナー 「サイバネティックス」の「第9章 学習する機械、増殖する機械」より

これについては、その後のゲーム理論の発展の中でより現実的な仮定が考えられるようになってきたようです。上記の本「数学的推論が世界を変える」では、ゲームのプレーヤーが持つ知識を考慮するモデルが紹介されています。その点で、上記のウィーナーの批判は今では克服されているようです。このゲームのプレーヤーが持つ知識という点でおもしろかった点は、相手がどういう知識を持っているかという内容の中に、相手が自分の判断についてどのような判断をするかという知識、も含まれる、という点です。たとえば自分がある行動を取ろうとしていて、相手がそれに協調する行動をとるかどうかを判断する場合、そしてこの場合、協調して行動するプレーヤーの数が多いほうが自分にとっても有利になるような状況であると仮定した場合なのですが、相手が協調行動に踏み切るかどうかはその相手が、自分に対してどう判断するか、に依存している、ということです。自分としてはある行動をとろうとしているのですが、相手が「自分がこの行動を取ろうとしている」と判断するかどうかを判断しなければならない、という入れ子構造です。