風土記の魅力(4)

出雲国風土記を読んで私なりに復元したオオナモチの物語は以下のようなものです。これが正しい復元などとは思いませんが、このようにあれこれ考えるのもおもしろいと思います。


兄弟の八十神(やそがみ)たちにいじめられ、いいようにコキ使われていたオオナモチは、越(こし)の八口(やくち)というヤマタノオロチの親戚のような怪物からヌナガワヒメを助けたことでヌナガワヒメと結婚し、また数々の宝物を得たのでした(天の下造らしし大神、大穴持命、越の八口を平(ことむ)け賜ひて、還りましし時、長江山に来まして詔りたまひしく「・・・・八雲立つ出雲の国は、我が静まります国と、青垣山廻らし賜ひて、玉(たま)置き賜ひて守らむ」)。出雲に戻ってきたオオナモチは砦を築き(八十神を伐たむとして城(き)を造りましき。・・・・)八十神たちを出雲から追放しました(「八十神は青垣山の裏に置かじ」と詔りたまひて、追い廃(はら)ひたまふ)。
その後、出雲の地を隈なくめぐり、人々に稲作を教え(大穴持命と須久奈比古命(すくなひこのみこと)と、天の下を巡り行(い)でましし時、稲種(いなだね)を此処に堕(おと)したまひき)、自らも鋤(すき)をふるって田を作っていったので、人々はオオナモチのことを、「五百(いほ)つ鉏(すき)の鉏(すき)猶(なほ)取り取らして天(あめ)の下(した)造(つく)らしし大穴持命(おおなもちのみこと)」と呼んで讃えました。また、オオナモチは巡(めぐ)った土地土地で、その土地を褒め称えることでその土地を祝福したのでした。たとえば手染(たしみ)の郷(さと)では「此の国は、丁寧(たし)に造れる国なり」と言われて(「たし」とは丁寧の意味)、たしの郷と名付けられたのですが、世を経るうちにその名前がタシミと変わったのでした。また、仁多(にた)の郷(さと)では「この国は、大きくもあらず、小さくもあらず、川上は木の枝が行きかい、川下は葦の根が這(は)ひ度(わた)っている。ここはにたしき(=水気の多い)小国(をぐに)なり」と言われて、そこをニタの郷、という名付けられたのでした。

また、オオナモチは、カムムスビの娘である、アヤトヒメとマタマツク・タマノヒメですとか、スサノオの娘である、ヤノノワカヒメトとワカスセリヒメなど多くの女性のもとに通い、多くの子を儲けたのでした。御子にはヤマシロヒコ、ワカフツヌシ、アダカヤヌシ・タキキヒメなどです。なかでも御子のアジスキタカヒコについては物語が伝えられているのですが、それは別の機会にお話ししたいと思います。
こうしてオオナモチ自身も栄え、出雲の国も栄えたので、偉い神様であるカムムスヒが諸々の立派な神々に「五十足(いそ)る天の日栖(ひすみ)の宮の縦横の御量(みはかり)は、千尋ちひろ)の栲縄(たくなは)持ちて、百(もも)結び結び、八十(やそ)結び結び下げて、この天の御量(みはかり)持ちて、天の下造らしし大神(おほかみ)の宮を造りまつれ(=よく分かりませんが、とにかくオホナモチのために立派な宮殿を造って差し上げなさい、という意味だと思います)」とおっしゃいました。そこで神々が集まって、宮殿を建てる土地を杵でついて固めたので、そこを杵築(きづき)というのです。出来た宮殿は今の出雲大社です。