薔薇十字団
![薔薇十字団 (文庫クセジュ) 薔薇十字団 (文庫クセジュ)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41YCVgLw%2B2L._SL160_.jpg)
- 作者: ロランエディゴフェル,田中義広
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1991/10/01
- メディア: 新書
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薔薇十字団についてはまず、何よりも事実を明らかにすることが大切でしょう。
第一章 事実
初期の文献
1614年に(CUSCUS補足:ドイツの)ヘッセンのカッセルで、「世界の改革」「ファーマ・フラテルニタティス(友愛団の名声)」、およびアダム・ハーゼルマイアーの署名がある「尊敬すべき薔薇十字友愛団への短い返答」という三つのテキストを収録した小冊子が現れた。この小冊子はたちまち相当の成功を博した。そのことは、第二版が同年に出たこと、「ファーマ」が1615年に三度、1616年に二度、1617年に一度再版され、1616年にはオランダ語に翻訳され、1652年に英語に訳されたことからもわかる。
「世界の改革」は実はトライアーノ・ボッカリーニの小説「パルナッソス報告」にほかならない。この風刺的作品は1612年にヴェネツィアで出版され、急速にヨーロッパじゅうに流布したのであった。政治と社会的道徳の改革の試みのむなしさを意地悪く批判したこの作品は、本来の薔薇十字文書ほどは人びとの興味を惹かなかったので、1615年以降は再版されず、「コンフェッシオ・フラテルニタティス(CUSCUS注:友愛団の告白)」に取って代わられている。「コンフェッシオ」は最初ラテン語とドイツ語の二つの版で出たが、以後の版ではドイツ語のテキストだけが「ファーマ」とハーゼルマイアーの「返答」と一緒に出版されつづけた。
1616年に小説の形をとった新たなテキスト「1459年のクリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚」が登場した。この作品の成功は先行する文書のそれに優るとも劣らぬものであり、出版の同年にすでに二つの再版と一つの偽作が出ているほどである。ドイツにおける反応
初期の薔薇十字文書が巻き起こした熱狂を如実に示しているのは、それらに刺激されて生じた膨大な文献の数である。薔薇十字団に賛同もしくは反対する二百以上の文書が1614年から1620年にあいだに現れ、18世紀の初頭までにはおよそ九百の文書が数えられるのだ。それらの著者は多くの場合匿名であったり、偽名のもとに身を隠しており、いまだに正体不明のものもある。(中略)
批評家のなかには、初期の薔薇十字文書を真面目に分析し、その思想の源泉を探求しようと試みた者もいた。たとえばブロトッファーは伝統的錬金術との比較検討を行ない、リバヴィウス博士はパラケルススの影響を詳細に論じた。1612年まで皇帝ルドルフ2世の侍医をしていたミヒャエル・マイアーは、1617年に薔薇十字団および、古い伝統を受け継ぐ彼らの自然哲学について客観的な評価を下そうと試み、同時代人に「騒ぎのあとの沈黙」を取り戻すことを勧めている。彼はまた1618年の「黄金のテミス」(テミスは正義と掟の女神)で、「ファーマ・フラテルニタティス」に描かれた薔薇十字団の諸規則の注解を行っている。(中略)フランスにおける薔薇十字
当時ドイツに滞在していた(CUSCUS補足:まだ若くて無名の)デカルトは薔薇十字団をめぐる風評に衝撃を覚えた。彼自身は友愛団の「同胞」を自称するペテン師に出会う機会を得なかったが、事態を客観的に判断するために真の薔薇十字団員を発見したいと願っていたようである。1623年にデカルトがパリに帰ったとき、薔薇十字の嵐が解き放たれようとしていた。不思議なビラが首都のあちこちの壁に貼り出された。「薔薇十字友愛団の主組合の代表たるわれらは、正義の心の主が帰依する至高の神の恩寵により、当市に目に見える形と目に見えない形で滞在する。われらはわれらが滞在を欲するありとあらゆる国の言葉を話す方法を、書物も記号も用いず教え、かくしてわれらが同胞たる人びとを死の過ちから救い出す所存である。」
(中略)イギリスにおける成功
イギリスはフランスよりもはるかに薔薇十字思想を受け入れる態度を示した。薔薇十字団の紹介者ロバート・フラッド(1574−1637)は、医者としてロンドンに定住する以前、ドイツに長年滞在していた。「探求者」と言う異名をもっていたフラッドは、パラケルスス、錬金術、カバラに興味を抱いていた。黒魔術や騒乱、異端という非難に反論して薔薇十字団を擁護する論文を、1616年からいくつも出版した。(後略)
私は薔薇十字騒動に最近のウェブ2.0やGoogle騒動に似たものを感じます。匿名で出版された「薔薇十字友愛団の名声」「薔薇十字友愛団の告白」「化学の結婚」という本が示す、霊的な知恵を持った賢者たちからなる秘密結社である薔薇十字団と、それが行おうとしている漠然とした社会改革の約束が、賛成反対の嵐を西ヨーロッパ一帯に巻き起こしたのでした。
フランセス・イエイツのすばらしいところは、この騒動の背後に本当の社会改革運動が存在し、それが三十年戦争の原因の背景の1つでもあり、この運動は戦争の時代を越えて一部の人びとに引き継がれ、その流れの一つはイギリスにおけるローヤル・ソサイアティー(王立学士院)の設立に結実していったことを明らかにしたことです。
その社会改革運動は、宗教改革とその後の宗教対立で騒乱にあったヨーロッパに、キリスト教徒としての友愛に立ち返ることを呼びかけ、人間の知性の普遍性を信じ、科学的でも魔術的でもある(当時、科学と魔術は混在していた)技術を利用して、社会を改革することを目指していた、というものです。この本でも、そのように薔薇十字団のことを説明しています。薔薇十字団は完全なフィクションですが、その背後にある運動に気づいた人々は、薔薇十字団に託された希望の実現のために時代と格闘したのでした。その中の一人にチェコ人、ヤン・コメンスキー、またの名をコメニウス、がいます。(ところでウィキペディアのコメニウスの項目も興味深い内容です。)
だがコメニウスは薔薇十字騒動のすべてが空虚であるとは信じられず、薔薇十字団に結晶化したすべての希望が実現する日がいつか来ると考えた。そして1641年、「光の道」という題の大胆かつ壮大な改革のプログラムを、まさしくイギリスの地で執筆した(出版はされなかった)。彼の目標は普遍主義である。「コンフェッシオ・フラテルニタティス」で述べられたアダムの共通言語がもはや存在せず、ラテン語も共通語としての役割を本当には果たすことができないのだから、万人に理解でき、あらゆるレベルの知識に適用できる新しい言葉を発明しなくてはならない。そうなれば知の総体が、世界のエリートを擁する世界学院に共同作業で集積され、この文化は、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、異教徒を問わず、万人に役立つであろう。
なんとなくGoogleを思い起こさせる記述です。
もし私にその能力があるならば、薔薇十字団の夢と挫折と夢の継承の物語を述べてみたい、と思います。夢の継承はライプニッツに、そしてライプニッツを高く評価していたウィーナーに、そして現代のITに続いていっているように私は考えています。