罪ありとされた側の夢

私自身の記述力のなさのために、昨日のエントリー「紫禁城の黄昏 完訳版(その2)」で何が言いたかったのか、結局、うまく書き表せませんでした。今、思い直してみると、私が言いたかったのは

  • 歴史において善とされることと悪とされることとの差は紙一重
  • 悪とされた側にも真摯な夢があった場合もある
  • 現代の人間が正しいと思ってやっていることも、後世において悪と断罪されるかもしれない

ということだったと思いました。そして、

  • 現代の人間が過去のことの善悪を判断するのには慎重でなければならない

ということにも思い当たりました。


満州事変が侵略であることを私は認めますが、それが当時の日本においてかなりの賛同を得られたのにはそれなりの理由があったと私は思っています。その例として、

を読んで知った橘撲(たちばな・しらき)のことを思い出しました。彼はどちらかといえば左翼的であり、中国人の立場を顧慮する人間であったのにもかかわらず、一時期、満州事変を支持したのでした。後世がもし橘撲を満州事変を支持したことで非難するとしたら、今の私たちがもし後世に非難されることになったとしても不思議ではない、と思います。

「あの人は僕たちよりも中国のことをよく知っている」――自らの祖国、中国を仮借なく抉り出すことにおいて人後に落ちない魯迅(ルーシュイン)をして、こう評さしめた日本人、それが橘撲である。(中略)
 橘撲の目を通して見た中国は停滞した国でもなければ無秩序の国でもなく、また稲葉岩吉や矢野仁一らの中国史学者が唱え、石原や板垣らがのちに同調していたように中国国民に国家形成能力が欠けているわけでもなかった。ただそれは中国が「武力闘争には不適当な政治組織しか持ち合わせていない」(「支那はどうなるか」『月刊支那研究』1925年2月)というだけのことを示すにすぎなかった。そして、それだけに民衆社会には未発ながらも無限のエネルギーが秘められている社会とみなされていたのである。それゆえ、橘からみれば、日本人が「支那に対して先進者であることを無反省に自惚れている」ことや「支那人を道徳的情操のほとんど全く欠乏した民族であるかのごとく考えている」(「支那を識るの途」『月刊支那研究』1924年12月)ことなどは誤っているだけでなく、日中関係にとって危険きわまりない偏見であった。


「キメラ 満洲国の肖像」の「第二章 在満各民族の楽土たらしむ」より

このような認識を持つ橘撲であったのに、彼は板垣征四郎石原莞爾と会談したあとは満洲事変を支持するようになったのでした。

 橘は満洲事変勃発後の関東軍および朝鮮軍の行動を軍規違反とみて批判的立場をとっていたが、事変についての認識を深めるため、10月初旬、奉天の東拓楼上の関東軍司令部において板垣・石原ら関東軍参謀との会談に臨んだ。その結果、関東軍の行動が直接には「アジア解放の礎石として、東北四省を版図とする一独立国家を建設し日本はこれに絶対の信頼をおいて一切の既得権を返還するばかりでない、更に進んで能う限りの援助を与えるものであること」、そして「同時に、間接には祖国の改造を期待し、勤労大衆を資本家政党の独裁および搾取から解放し、かくて真にアジア解放の原動力たりうるごとき理想国家を建設するような勢いを誘導する意図を抱くもの」であることを認識するに至ったという。


「キメラ 満洲国の肖像」の「第二章 在満各民族の楽土たらしむ」より

その後の歴史を知っている私たちにとっては、「日本はこれに絶対の信頼をおいて一切の既得権を返還する」ようなことがなかったことや「勤労大衆を資本家政党の独裁および搾取から解放」するようなこともなく、むしろその反対が進行したことを知っているのですが、当時の橘撲はそのようなことを知りません。そうであれば、上記のような夢に橘撲が魅せられたとしても非難出来ることではないと私は思います。後世の私たちにとって大切なのは、当時にはそのような夢が存在したという事実を認識することと、その夢がどうやって裏切られていったのかその過程を認識することではないかと思うのです。