ローマは1日にして滅びず(22)

ローマは1日にして滅びず(21)」の続きです。
オットー3世のローマ帝国復興の次に、世界帝国の夢が実現しそうになったのはホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世の時です。時代はオットー3世の時より200年ほどのちになります。しかし、フリードリヒ2世については藤沢道郎氏が「物語 イタリアの歴史」

の中の「第四話 皇帝フェデリーコの物語」で、みごとに物語っています。これを読んでしまうと私は何も書けなくなってしまうように感じます。でも、なんとか勢いをつけて私なりに物語ることにします。


その前にオットー3世の時代からその後の東と西のローマ帝国の様子をざっと見ていきます。


西のローマ帝国(後の世にいう神聖ローマ帝国)でオットー3世が皇帝だった頃、東のローマ帝国(こちらは後の世ではビザンティン帝国と呼ばれています)の皇帝はバシレイオス2世でした。「ローマは1日にして滅びず(6)」で「紀元1025年 ゴート族のドナウ渡河から647年 バシレイオス2世による復興」という副題で少しご紹介したバシレイオス2世です。この頃が東のローマ帝国の最盛期でした。再度引用しますが

ユスティニアヌス1世の峰が最初の高峰だとすれば、その後7世紀の半ばから8世紀はじめにかけての鞍部をこえた縦走路は、次第に高度をあげつつ、バシレイオス2世に至ってビザンティン山脈の最高峰に達する。彼が死んだ年、1025年は帝国が繁栄の頂点に達したといってよい。
 東はアルメニア・シリアから西は南イタリアまで、北はドナウ河から南は地中海の島々まで、大きく広がった国境はどこも平和で安定していた。いずれの国境にも帝国を脅かすような敵は見当たらなかった。


井上浩一著「生き残った帝国ビザンティン」より

ということです。バシレイオス2世も独身のまま生涯を終えました。とは言え、こちらはオットー3世とは違って68歳まで生きました。49年という長い治世でした。彼の一番の業績はブルガリアを征服したことです。


西のローマ帝国では、帝国理念をうかがわせる事件がいくつか起きます。大きな事件だけを拾っていくと、まず、1077年のカノッサの屈辱をハイライトとする聖職者叙任権闘争があります。要するにローマ皇帝ローマ法王のどちらが偉いのか、という争いです。これについては、これまた、藤沢道郎氏の「物語 イタリアの歴史」におもしろい物語として収録されていますのでご興味のある方にお勧めします。西のローマ帝国がその帝国の理念の原理的なところで争っていた頃、東ではどうだったかと言いますと、例のマンツィケルトの戦いで小アジアの領土を一挙に失ったのが、カノッサの屈辱の年に近い1071年です。(「ローマは1日にして滅びず(7)」参照)