神島のゲーター祭だけで、「答志の淡郡(あはのこほり)」の「淡(あわ)」や「粟嶋(あはしま)」の「粟(あわ)」を「太陽」の意味である、とするのは性急かもしれません。しかし、私は「あわ」を「太陽」という意味に解することで、ひとつ疑問が解けることがありました。
それは、内宮の摂社で海辺の綺麗な景色(三重県伊勢市二見町松下字鳥取)のなかに鎮座する「粟皇子(あわみこ)神社」のことです。ご祭神は「須佐乃乎命御玉(スサノオのミコトのみたま)道主命(ミチヌシのミコト)」という神なのですが、私はこの神がなぜ「粟皇子」と呼ばれるのだろうか、とずっと思っていました。
ところでこの神社にも私は行ったことがあり、私のお気に入りの神社の一つです(その時のことは「粟皇子(あわみこ)神社」に書きました)。日本書紀の垂仁天皇紀に出てくる天照大神の言葉「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。この国に居らむと欲(おも)ふ。」を実感させるような場所です。
さて、今回私は試しに「粟皇子」を「太陽の皇子」と言い換えてみました。すると日本書紀の以下のくだりを思い出しました。
即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめがみ)を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。号(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此(これ)筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等が祭る神、是(これ)なり。
「日本書紀 巻一神代上 第六段 第三の一書」より
「道主命」はこの日本書紀の記述にある「道主貴(ちぬしのむち)」でしょう。そしてこの神は三柱の女神の総称であり、「日神の生(あ)れませる」、つまり太陽の神が生んだ、と書かれています。私は、だから「道主命」は「粟皇子」と呼ばれるのだ、と納得しました。この三柱の女神はいわゆる宗像三女神で、福岡県宗像市の宗像大社に祭られています。その名は市杵嶋姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、田心姫神(たごりひめ)(伝承によって名前の若干に変動があります)といいます。航海の安全を司る女神たちです。
さて、私には上のようなこともあって、ますます「あわ=太陽」という説を唱えたくなりました。粟嶋は太陽の島なのだと思いました。だとすれば、この島はどこにあるのでしょう? それは答志島のことでしょうか? しかし、答志島が昔、粟嶋と呼ばれていた証拠が見つかりません。あるいは、ある人のいうように伊雑宮のあたりなのでしょうか? しかし、私には地形的にここが島と呼ばれそうにないと思います。それとも別の人のいうように安楽島(あらしま)こそ粟嶋なのでしょうか? それとも、ゲーター祭の伝わっている神島なのでしょうか? それとも、ひょっとしたら、今はもう海に沈んでしまった島なのでしょうか? 残念ながら私には答えがありません。
かつて、この海域に太陽の島があり、そこにワカヒルメのミコトという強力な女神の聖地があった、という推定を得たということだけで、私は満足すべきなのかもしれません。