「過去の思想でいま起こっていることは語れない」か?

フューチャリスト宣言

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

を読みましたが、このエントリーのタイトルは、その中の「第4章 ネットの側にかける」の中のセクション・タイトル、
過去の思想でいま起こっていることは語れない
から来ています。
ここの記述は私にとって耳が痛い記述でした。それをめぐって私は今、内省モードに入っています。そのことを今回はご紹介したいのですが、そのためにはまず、このセクションより少し前のところから記述を始めなければなりません。この本には次のような茂木氏の言葉が、梅田氏の引用として出てきます。

梅田 茂木さんのお考えを教えていただきたいのは、「インターネットは人類の歴史で何以来か」ということです。というのは、『ウェブ進化論』が出てすぐ、読売新聞の書評で、インターネットについて「人類史上、おそらくは「言語」が獲得されて以来最大の地殻変動」とお書きになった。僕はそれまで、そんなすごいことを言ったことがなくて、もう少し手前の、印刷以来かなとか、産業革命以来かなとか、・・・(後略)

この流れを受けて、上記のセクション・タイトルのセクションで梅田氏がこう述べています。

梅田 (前略)僕は、いま起こっている現象を、過去の思想家の考えや過去の現象とのアナロジーで解釈しようとする人が多すぎる気がしている。たとえば近代に起きてきたことの流れを前提に、ネット世界でいま起きているある現象が過去の何かと似ていたら、その過去の推移と必ず同じことが繰り返されるだろうと考える。それを前提に、過去の思想とか哲学を現在にあてはめて議論しようとする。僕はそこがいまのネットをめぐる大問題だと思います。
 たとえば一八世紀頃の啓蒙主義の流れと、いまの時代が似ている部分がある。ところが、その啓蒙主義が何を生み出したか・・・・・・といってネガティブな主張になる。人間の理性信仰が、一九世紀から二○世紀に向けてとんでもないことを引きおこしてきたではないかと。そのことを絶対のファクトだと考えて現在を見ようとする人が多いんだけど、茂木さんがおっしゃったように、人間が言語獲得以来の変化のところにいるのだとすれば、その変化の分を本当に重く受ける(CUSCUS注:「る」は衍字か?)とめるのだとしたら、一八世紀の啓蒙主義の流れはマイナスに向かっていった部分もあったろうけれど、こんどはプラスのほうに向かっていくかもしれない。少数派でもいいから、僕はそういうふうに考えたい。

これは、私にとって耳が痛い意見です。私がこのブログの[薔薇十字からITへ]でやろうとしていることは、梅田氏が批判しているようなことなのです。すなわち

  • こんなことは新しいことではない。騒ぎすぎるな。過去に例があるのだ。薔薇十字ライプニッツ思考のアルファベットもウィーナーのサイバネティックスも、何かとてつもない未来を約束しているかように一時期は見えたのだ。しかし、成果はそれほどでもなかった。

と。しかし、もう一度、自己弁護を試みました。

  • いや違う、自分が書きたいことはそれだけではない。私が書きたかったのは夢は継承される、ということだ。何百年にも渡って夢は継承されていく。そしてその夢は少しずつ実現されていく。

と。
それにしてもインターネット、あるいはウェブ2.0はどこが「言語が獲得されて以来最大の地殻変動」なのでしょうか? 分からずにいたのですが、ある時、ふと思ったのは、茂木氏のネットとのコミュニケーションの量は私なんかよりはるかに大きいのではないか? そして茂木氏は、他人との会話や、読書、などとは異なる脳のモードで(つまりハマッている状態で)それを行っているのではないか、ということです。直感的なイメージは茂木氏の脳がそのままネットにつながっているようなイメージです。それならば「言語が獲得されて以来最大の地殻変動」という言葉の意味も少し想像出来ます。
そして、このイメージから、次にくるのは、脳とネットの間のインタフェースにおける革新、なのだと予感しました。