「サイバネティックス」という本の「第2章 群と統計力学」(10)

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さて、エルゴード理論を紹介したあと、この章はエントロピーの話に移ります。

 統計力学の重要な概念の一つで、古典熱力学において応用されるものは、エントロピーの概念である。これは本質的に位相空間内の領域の性質であって、その確率測度の対数によってあらわされる。


孤立系(物質とエネルギーが保存している系)においてエントロピーが常に増大する、というのは熱力学の第2法則ですが、ボルツマンは(おそらくギプズも)これを統計力学から理論付けました。ボルツマンが非常に苦労したのは、時間t-tに置き換えても成り立つニュートンの方程式から、どうやってエントロピー増大の法則のような時間が一方向にしか流れない法則が導き出せるのか、ということです。ここで第1章の主題、ニュートンの時間とベルグソンの時間へのつながりが出てきます。第1章でベルグソンの時間と呼ばれていた非可逆的な時間が、第2章では時間の経過によるエントロピーの増大の法則として捉え直されています。
では、この一節の直前までウィーナーが述べてきたエルゴード理論とこのエントロピーの増大法則の間にはどのような関係があるのでしょうか? ウィーナーの記述ではあまりはっきり現れていませんが、統計力学におけるエントロピー増大の法則は、エルゴード理論を基礎として導き出される、というつながりがここにはあります。それは、こういうことです。


エルゴード理論は、力学系の振る舞いの時間平均を集合平均に置き換えてもよい、と言っています。そうすると、集合平均において一番確率の高い(=測度の大きい)状態をAとすると、力学系は無限の時間経過のうちにさまざまな状態を取るでしょうが、状態Aにいる時間の割合が一番大きいことになります。エントロピー統計力学では集合平均(上の引用では「位相平均」)上での力学系の状態の確率の対数として定義されます。ですから、エントロピーが大きいというのは集合上で確率が、すなわち測度が大きい、ということになります。そこで、今、力学系エントロピーの低い状態にあるとすると、その力学系は時間の経過につれてエントロピーのより高い状態に移っていく確率が高いことになります。ここでは詳しく検討しませんが、この確率は、力学系を構成する粒子(原子や分子など)の数が膨大になると、ほとんど1になります。このようにして可逆的なニュートン力学から非可逆的な法則が導かれることになります。

*物理学生への注 ここで巨大な分子数から導かれる結論だけをざっと述べておきましょう。それは次のようなことです。
 先ず極大値S極大*1からS値をだんだんにずらしていきますと、それにつれて、それの長期平均延べ時間が減少してゆきますが、それは次のように徹底的な減りかたなのです(図3)。すなわち長期平均延べ時間は1より小さい数値ですからそれを小数であらわすことができますが、その小数点以下の0の個数がS値の「ずれ」に比例して増大し、しかもその比例定数が分子の個数を因子に持つ巨大なものなのです。ですからSの値が極大値からほんの少しずれただけで、長期平均延べ時間は徹底的に小さくなってしまいます。

  • 図3


朝永振一郎著「物理学とは何だろうか 下」より


このあと、ウィーナーは従来の熱力学(統計力学ではなく、分子の微視的な運動を仮定しない現象論的な熱力学)を生物に適用することは無意味である、ということを述べています。熱力学は蒸気機関や、内燃エンジンの解析には役に立つが、それはこれらの機関が分子の大きさに比べて巨大であり、その一部を取り出して見れば、熱的にほぼ平衡状態に達していると近似的に見なすことが出来るが、生物の組織は非常に細かいので、それが平衡状態にあると見なすことは近似的にも出来ないから、と述べています。この部分は(少なくとも私には)かなり難解な部分です。

温度というものは、平衡状態においてのみ、しかもその平衡状態であることを用いてのみ、精密に決定できるものではあるが・・・・生物体においては、この大体の均質性も成り立たなくなる。電子顕微鏡蛋白質の構造をみると、織物のようにひじょうに明確、繊細なものであり、その生理学もまた確かに織物の繊細さに対応するものをもっている。この繊細さは、ふつうの温度計の空間−時間的尺度の細かさよりずっと程度が上であり、したがってふつうの温度計で読みとった生体組織の温度は、そのきわめて大ざっぱな平均にすぎず、熱力学的な真の温度を示してはいない。ギブズの統計力学は、身体の中に起っているものをかなりよくあらわす模型でありうるが、ふつうの熱機関によって示されるような図式は明らかにそうはなりえない。


ウィーナーはここで熱力学と(ギブズの)統計力学を区別して、熱力学は生体内で起っていることを充分に記述することは出来ないが、統計力学は熱力学より詳しく生体内での現象を記述出来る、と言っています。統計力学は熱力学を基礎づけるために開発されたものですが、ウィーナーはここで統計力学に、熱力学よりも大きな記述可能性を認めています。
とすれば、彼の目指しているものは、生命現象を記述するための非平衡統計力学のように読めます。たとえば、プリゴジンの散逸構造のような話でしょうか。しかし、彼はそこから情報と確率過程の話へと逃走(?)してしまいます。


おそらくサイバネティックスの第2章は、サイバネティックスなる科学の対象を記述した大まかな作戦図のようなものだったのでしょう。しかし、実際になされたことはその目標の何十分の一にしか達していません(少なくとも私にはそう思えます)。第2章には残された研究課題が豊富にあると思います。


「サイバネティックス」という本の「第2章 群と統計力学」(11)」に続きます。

*1:Sエントロピーの値を表す