「ローマは1日にして滅びず(26)」の続きです。
ホーエンシュタウフェンの一族が断絶したあと、西のローマ帝国はしばらくの間、実質的な皇帝が出現しませんでした。ドイツ諸侯が強力な皇帝の出現を嫌って、足を引っ張り合って有力者を皇帝に推薦しなかったのです。南イタリアはフリードリヒ2世が残した統治機構をフランス王家の一員であるシャルル・ダンジューが征服ののち、破壊してしまいました。彼には統治のセンスがなかったのです。
このあたりからフランスの力がイタリアで強まり、ローマ法王庁がフランスのアビニョンに移転したり、ローマに戻ってきたと思ったらアビニョンにもう一人のローマ法王が選出されてカトリック教会が分裂したり、ゴタゴタが続きます。要はローマ帝国の南も北もゴタゴタ続きです。
実質的に力を持たなかった皇帝たちを含めて、その後の皇帝の名前を見ていくと次のようになります。
- ヴィルヘルム・フォン・ホラント(つまりオランダのヴィルヘルム)
- リチャード・プランタジネット(イングランドの王子の一人です。皇帝は諸侯の選挙で決まるのが建前なので、あえて立候補したのです。)
- アルフォンソ10世(カスティリア王。今のスペインの一部の王です。)
こりゃひどすぎる、ということでドイツ諸侯が、やっぱりドイツの中から皇帝を選ぼうということで、でも、強力なのはやめておこう、ということで選ばれたのが
- ルドルフ1世(ハプスブルク家)
です。しかし、この人、なかなかのやり手だったので、次は別の家系から、ということになって
その後
- ハプスブルク家のアルブレヒト1世
- ルクセンブルク家のハインリヒ7世(このルクセンブルク家は現ルクセンブルク大公とは別の家系らしいです。ややこしいことです。)
- ヴィテルスバッハ家のルードウィヒ4世(ヴィテルスバッハというと、ディズニーランドの白雪姫の城のモデルになった、南ドイツのノイシュヴァンシュタイン城を建てさせたバイエルンの狂える王ルードウィヒ2世が、有名ですね。)
- ハプスブルク家のフリードリヒ3世(美候)
その次の
- ルクセンブルク家のカール4世
になって、ようやく落ち着きます。カール4世も私の興味をひく人物です。少年期はフランス宮廷に育ったのでドイツ語よりフランス語のほうが堪能で、ルクセンブルク家というよりはリュクサンブール家といったほうがふさわしいような。でも父親ヨハンはボヘミア(チェコ)のプシェミスル家に入り婿してボヘミア王だったのです。この王様(ヨハン)、あちこちに戦争にいってボヘミアを留守にしていたので、ボヘミアン(=放浪者)の語源にもなりました。後年、カール4世はチェコのプラハに腰を落ち着けてローマ帝国を治めましたが、この時までに勢力を伸ばし続けてきた諸侯をいまさら力で抑えるのは無理、と、特に有力な7つの諸侯(選帝侯といいます。皇帝を選挙する権利を持つ諸侯という意味です)にほとんど独立国にも等しい特権を与えて、懐柔します。そんなに権利を与えて自分は大丈夫かというと、しっかり自分も選帝侯の1人(正確には2人)に含めているのでした。どういうことかというと、カール4世はボヘミア王とブランデンブルク辺境伯の2つの選帝侯位を兼ねていたのです。あとは政治力で何とかしのごうというのがカール4世の戦略でした。