コンピュータの誕生について

コンピュータの誕生について、おもしろい記事を見つけることが出来た。

コンピュータの発明者はエッカートとモークリーということになっている。だが、まえまえから異説があって、英国のチューリングやドイツのツーゼの名前が出ることも多い。
 そうした人々のなかにアタナソフという名前があることは、多少ともコンピュータ開発史に関心のある人ならば知っていることだろう。
 現に1972年に刊行されたH.ゴールドスタインの『電子計算機の歴史』(共立出版)という浩瀚な本にも、電子式の2進法を利用した先駆的な業績であり、モークリーの仕事に大きい影響を与えた、と記述してある。
 だがゴールドスタインの本にしても、モークリーの引用は23カ所、エッカートの引用は19カ所もあるにもかかわらず、アタナソフの引用はわずか3カ所にすぎない。アタナソフがいかに時代を抜きんでていたか*1ということと、かれの不遇がどんなものであったかを、この引用数はよく示している。
モークリーとエッカートの業績が喧伝されたのは、かれらがコンピュータの基本特許をもっていたからだ。逆に、アタナソフの業績が認められなかったのは、かれが特許をとることに失敗したからである。それには戦時研究による研究の中断や大学の無理解による特許取得の軽視があった。


【189冊目】 クラーク.R.モレンホフ(最相力/松本泰男訳) 『ENIAC神話の崩れた日』 工業調査会 (1994年)――読書70年 書評30年   名和小太郎のブログ

この名和小太郎氏、経歴がすごそうな方だ。アタナソフについて少し調べてみよう。

ENIACのプロジェクトはすでに始まっていた。このスポンサーは陸軍の弾道研究所で、ハーマン・ゴールドスタインが研究所とENIACチームとの調整役となり、アバディーンフィラデルフィアの間を頻繁に行き来していた。ゴールドスタインは駅でフォン・ノイマンを見かけ、挨拶をした。これは1944年8月のこと(ENIACは完成間近)。

「それまで僕はあの大数学者には一面識もなかったんだ」とゴールドスタインは言う。「だがもちろん彼のことはいろいろ聞かされていたし、その講義にも何度か出たことがある。何しろ相手は名だたる大学者だ。だから思いきってそばに行き、自己紹介をして話ははじめたものの、まったくおっかなびっくりだったよ。ところがありがたいことにフォン・ノイマンは気さくなあったかい人柄で、こっちの気を楽にさせようとしきりに気を配ってくれた。そしてあれこれ話しているうち、まもなく話題は、僕の仕事のことになったんだ。この僕が一秒間に333回ものかけ算をやれるような電子計算機の開発に肩入れしているときくやいなや、今までの気楽な世間話のふんいきはガラリと一変して、まるで学位論文の口頭試問みたいになってしまったよ。」


von Neumann and IAS computer

この日のことがきっかけになってフォン・ノイマンENIACプロジェクトの末期に乗り込んでくることになるのだが、この会話の時にノイマンの頭の中で何が起こっていたのか想像するのは楽しい。「なんてこった。これはチューリングマシンじゃないか。あれは実現可能だったんだ。」とか。ENIACの設計はチューリングマシンではなかったのだが、彼にはすぐにチューリングマシンの実現可能性が見えたのではないか?

*1:強調は私