オットー・フォン・ハプスグルク氏死去

2011年7月4日、オットー・フォン・ハプスブルク氏、ドイツはバイエルン州ペッキングの自宅で死去、というニュースを知って、「おおっ!」となった。98歳とのこと。何せこの人はオーストリア・ハンガリー帝国がまだあった1916年、最後の皇帝カール1世の即位の時に皇太子になった人である。まだ、第一次(第二次ではない)世界大戦の最中の話ですよ。亡くなったばかりの人に言うべき言葉ではないが、「まだ、そんな昔の人が生きていたんだ」という驚きがあります。まあ、オットー・フォン・ハプスブルクのことは前から知っていましたが。
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この真ん中にいる坊やがオットー・フォン・ハプスブルク氏です。それにしても、お母様(オーストリア・ハンガリー帝国皇妃ツィタ)の衣装、すごいな。


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年をとってからの姿


ハプスブルクと言えばあなた、あのハプスブルクですよっ! ってなに興奮してるんだろう。一時期はヨーロッパの半分ぐらいを支配していたヨーロッパ最強の王室ですよ*1。現在の国の名前で言えば、ドイツ、スペイン、オーストリアハンガリーチェコスロバキアハンガリー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、イタリアの一部、クロアチア、まだ、他にも書き落としているかもしれないけれど、あと、新大陸の植民地も(沿岸部だけだけど)支配しておりました。何せ、かつては神聖ローマ皇帝を勤めた家柄ですからね。歴史の表舞台に立ちまくりの家系ですよ。(って私達にとっては、どうでもいいっていえば、どうでもいいんですけど。でも、酒の肴にはなるでしょ?)
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子供の頃はかわいかったんだな。なにか、映画「ヴェニスに死す」に出てきそう。やはり、上品そうですね。


オットー・フォン・ハプスブルク氏の功績は、ベルリンの壁崩壊に一役かったことです*2Wikipediaオットー・フォン・ハプスブルクの項目を読むと、そういう活動に達するまでは紆余曲折あったようですが。私は、この人のお母様のツィタ*3の伝記を読んだことはありますが、オットー氏についてはそういえば、あまり知りません。きっと、清朝ラストエンペラー宣統帝溥儀にも匹敵する数奇な生涯だったと思うのですが、誰か伝記を書いてくれないかなあ・・・・。
私が知っているのは、ウィリアム・シャイラーのベルリン日記*4

に登場するオットーの姿です。第二次世界大戦で、ドイツ軍がベルギーを攻撃したため、ベルギーにある城から彼は脱出します。ヒトラーの頭の中では、ハプスブルク家は敵に分類されていました。ここには脱出するオットーその人は登場せず、アメリカのラジオ特派員であるウィリアム・シャイラー氏が、ドイツ軍に連れられて、ドイツ占領下のベルギーを取材する中で、オットー氏の痕跡を認める・・・・。ありていに言えば、ドイツ兵士たちの戦場における略奪に付き合わされることになるのですが・・・。そういう場面の記述です。私としてはまず、なぜ、オットー・フォン・ハプスブルク氏がベルギーの城にいたのか、を知りたいのですが・・・。今のところ手がかりはありません。ベルギー王家のサクス・コーブルク・ゴータ家との縁戚関係で頼ったのでしょうが、どの縁戚関係でしょうね

(1940年5月20日の項)
 正午頃われわれはブリュッセルへの埃っぽい道を疾走していたが、誰かがステーノッケルゼールの村と、オットー・フォン・ハプスブルクおよびその母親の元オーストリア=ハンガリー帝国皇后ツィータの住んでいた中世風の古城を目に留めた。われわれは見物するためにストップした。城は爆撃されているように見えた。
(中略)
男の住んでいたある部屋では、本、スウェーター、スーツ、ゴルフのクラブ、蓄音機のレコード、ノートが散乱していた。階下のサロンは恐るべきブルジョワ趣味でしつらえた大きな部屋だが、そこに大きな机の上に本やノートや陶器がごちゃごちゃと置いてある。昆虫に関する非常に大きな本は、あきらかに誰かが――おそらくオットーが――何度となく読み返したらしい。二階の彼の書斎だと思われたところでは、『来るべき戦争』と題するフランス語の本を見つけた。私は彼の蔵書を一通り見た。フランス語、ドイツ語、英語の非常にいい本がいくつかある。あきらかに彼は本については優れた趣味を持っていたのだ。もちろん政治学、経済学等の大学での彼の教科書もたくさんあったが。


ウィリアム・シャイラー「ベルリン日記」より